Craftsman

山の - YAMANO

本名: 山野正幸   経歴: 昭和41年生まれ。竿昭作(山野一男)の息子であり、竿昭作2代目。大学卒業後はIT企業に就職するが、平成7年に和竿修行をスタート。昭和53年に埼玉県伝統工芸品、平成3年には国の伝統工芸品とし指定を受けた川口釣竿工業組合だが、現役和竿師として活躍している、川口竿の総本山・青木竹にのこるわずか4人の内1人。衰退の一途そたどる和竿師の世界を復権させるために、伝統工芸の催事、小学生向けの和竿作り教室、海外への和竿発信など、精力的に活動する。

東正作 - TOMASASAKU

本名: 滝沢正治 / 弟・明進(あきのぶ)※東正の長男はイシダイ竿師として有名な瀧澤   経歴: 大正3年10月、埼玉県川口市青木町で5人兄弟の次男として生まれる。尋常小学校卒業後、4代目東作門下に入門。お礼奉公を含めて8年修行した後、川口に戻り三男の弟、明進らを弟子入りさせて和竿師として独立する。しかし父親と大喧嘩の末、浦和駅前の高砂町へ映り、時代は第二次世界大戦勃発へ。戦時中の昭和15年には東正の長男、瀧澤こと滝沢樹が生まれる。戦後間もない昭和21年、同じ浦和の常盤町に映り「バンブー工業株式会社」を設立するが約2年後に倒産。ここで弟の明進がもうひとりの東正と川口に別の工房を構えて一本立ち、独自の道をひらく。バンブー工業倒産後は、浦和市領家の東俊の敷地内に並んで工房を縦、20数年間を過ごした後、ふたたび生まれ育った。川口市青木町に映り工房を立て直した。   エピソード: 東正は焼印にカク枠か枠なし。弟の東正は小判型またはなで肩のカク枠。弟の東正はフナ、タナゴ、ヤマベ、ヤマメ、ハゼといった小継竿が多く、銀座や上野の松坂屋お抱え竿師であった。1本ものの高級竿が得意。兄の東正は、個人の注文は受けず、量産体制を整えると、渋谷サンスイや銀座松坂屋といった大きな顧客を相手に高級竿を大量につくった。春にはヤマメ竿、梅雨前にはアユ竿、夏になるとハゼ竿、秋はイシダイ竿といったように季節に合わせて60〜80本をまとめて製作。

東光 - TOMITSU

本名: 山野明光   経歴: 昭和3年、埼玉県川口市に生まれる。延べ竿や量産竿を作っていた竿屋の息子として育つ。20歳の問に竹竿を買い求めに通っていた4代目東作の弟子の一人、竿作(加藤勝)の紹介で4代目東作門下に入門。この頃、5代目東作(松本栄一氏)ほか、兄弟子には東静(奥村静雄)、東猛(常川猛)、秀作(奥山秀治)、東昭(後藤昭一郎)らがいて、数年後にはシベリアから復員してきた6代目東作(松本三郎)も加わり、毎日競うようにして腕を磨いた。昭和28年に7年間の修行の末独立して川口の実家に戻る。   特徴: 江戸和竿の名家として君臨する泰地屋東作が、4代目東作の時代に輩出した「27人衆」のうち一人。東作6代目松本三郎いわく、「竹材の目利きは当代一、塗仕事に関しても研究熱心」。海なし県の土地柄ヘラブナ竿にも力を注ぐが、マブナやハゼ、シロギスなどの江戸前の釣りに愛用されてきた和竿作りを好む。和竿作りは竹選びと素材の特性を見抜くこと、そして切組の工程がもっとも大事であるとする。塗りに関しては、歌舞伎の成田屋一門が好んだ海老塗りをはじめ、五色塗りなどの代わり塗りに工夫を凝らす。

竿昭作 - SAOSHOSAKU

本名: 山野一男   経歴: 昭和12年、埼玉県川口市上青木に生まれる。実家は酒屋を営んでいたが、中学校卒業と同時に父の弟である鳩ヶ谷和竿師・忠洋(熊井忠吉)に弟子入りし、5年間修行を積む。昭和32年、20歳で独立した後、同じく忠洋で学んだ兄弟3人で山野釣竿製作所を設立、フナやヤマメ、アユといった川釣竿を中心に製作。平成元年まで兄弟ふたりで和竿の製作をつづけてきたが、平成7年には息子・山野正幸(昭和41年生まれ)がサラリーマンから転職して和竿修行をスタート。初代竿昭作、2代目竿昭作の親子ふたりで工房「山野釣具店」を構える。   エピソード: 黒ダイのヘチ竿に没頭する。黒漆系の談巻仕上げを得意とし、その和竿は"黒の五井竿"の名でファンにしたしまれてきた。(「五井」は堤防釣りで有名な千葉県五井堤防を指す。)五井堤防、夜のヘチ釣りクラブ『黒華会』に訪問販売などしていた。  

竿俊作 - SAOTOSHISAKU

本名: 田中宣俊   経歴: 昭和5年、東京都府中市宮町に生まれる。祖父は川魚取り、父は鉄砲撃ちという農家兼業の多摩川漁師の子とおして育つ。昭和20年、終戦とともに埼玉県川口市にて布袋竹を専門としていたた大店、竿利(野口利夫)に入門。12年後、独立と同時に生まれ故郷に戻り、工房兼釣具店を開く。昭和45年頃に釣具店を閉め、その後は和竿作りに専念し、平成15年には茨城県稲敷郡阿見町南平台に移転する。江戸和竿   エピソード: アユ釣りを好んでいたことから、一時期は和竿師としての全精力をアユ竿にささげていた。日本一のアユ漁師と語り継がれる狩野川漁師との交流が深かった。年間100本も渓流用の毛ばり竿は、日本渓魚会御用達として全国の会員たちに愛され、「府中のテンカラ」と呼ばれた時代もあった。