秋琵琶日記 近江の湖魚——食の段取り

記録

秋琵琶日記 近江の湖魚——食の段取り

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掲載 2026.04.30

十月の琵琶湖でタナゴは水に戻すので、食は近江の湖魚に振り替える。鮒寿司を燗酒と、ホンモロコの塩焼き、ビワマスの刺身。住茂登で鮒寿司の正式コース。喜多品老舗四百年・魚治天明四年の系譜を辿る。釣りと食が別系統になるが、近江の食の厚みはそれを補って余りある。

 十月の食を書く。十月のタナゴ釣りは色を見るための釣りで、食わない。これは前の章でも書いた通りで、釣ったものは早く水に戻す。釣り師の腹は別の食物で満たさなければならない。タナゴは原則として水に戻すので、食う対象は近江の湖魚——鮒寿司、ホンモロコ、小鮎——に振替えとなる。釣りの本筋と食の本筋がずれる、十月だけの特殊な構成になる。実訪問の記録はこの稿の末尾に追記する。

 幸い、釣り場が琵琶湖周辺なら、食の方は不自由しない。琵琶湖は古くから湖魚の食文化が分厚い土地で、鮒寿司を筆頭に、秋のホンモロコ、夏の小鮎、冬のいさざと、季節ごとに違う湖魚が食卓に並ぶ。十月はちょうどホンモロコの旬の入口にあたり、これと鮒寿司の通年もので、琵琶湖の食を一日二日で掬っていける。

歌川広重〈近江八景〉粟津晴嵐
歌川広重〈近江八景〉「粟津晴嵐」(The Metropolitan Museum of Art 蔵/CC0)

 鮒寿司——ふなずし——は、琵琶湖固有のニゴロブナを春に塩漬けし、夏に塩を抜いて飯と一緒に桶に重ねて発酵させる、いわゆる「なれずし」の系譜である。「現存する最古の寿司」と紹介されている通り、握り寿司より遥かに古い、本来の寿司の姿を残している。香りは独特で、チーズのような酸の強い匂いで、初めて食う人は鼻にこたえる。私も最初に近江で鮒寿司を口にしたとき、鼻が驚いて、二切れ目に行くまで一瞬の躊躇があった。だが慣れてくると、これほど米と魚と発酵が三位一体になった食物は他にない、と分かってくる。日本酒の肴としてはほぼ最強の部類で、燗酒との取り合わせは別格である。

 喜多品老舗は、琵琶湖西岸の近江高島にあって、四百年に渡り鮒寿しを作り続けてきた、文字通りの老舗中の老舗である。室町から続く家、というのは食の世界でもそうそう無い。魚治は天明四年——一七八四年——創業。蔵に住み着いた菌で、二冬かけて発酵熟成させる本式の鮒寿司を作る。元祖阪本屋は、江戸時代中期の膳所藩お抱えの御用料亭・本家阪本屋から暖簾分けを受けて、明治二年——一八六九年——に鮒寿司の専門店として開いた。湖魚佃煮も併せて扱うので、土産の品揃えとしてはここが一番厚い。住茂登は四代続く店で、子持ちのニゴロブナだけを使い、近江米コシヒカリの最高級で漬ける。鮒寿司を中心に、鴨や琵琶湖の魚を出す。腰を据えて食う一軒として、私は今年これを第一候補に置いている。鮒寿司を初めて口にする釣り師は、滋賀県漁連や農林水産省の郷土料理データベースに目を通してから店に上がる方がいい。何が起きているのかが分かっていれば、香りに対する身構えが違ってくる。

 ホンモロコは琵琶湖固有種で、コイ科の魚としては最も美味と評される魚である。京都の料亭でも供される高級魚で、秋ホンモロコの旬は九月から十二月。十月のタナゴ釣りで琵琶湖まで行くなら、必ず食卓に乗せたい一品になる。湖魚問屋の魚重産業のような店も琵琶湖の畔にあって、湖魚の流通を支えている。ホンモロコの食い方は、塩焼き、すずめ焼き——甘露煮——、刺身、フライ、南蛮漬け。塩焼きが一番素直で、骨ごと食える。京都の料亭ではすずめ焼きが定番らしい。琵琶湖八珍——滋賀のブランド湖魚——には、ホンモロコ、コアユ、ニゴロブナ、イサザ、ハス、スジエビ、ビワマス、ウナギの八種が並ぶ。秋から冬にかけては、ホンモロコ・イサザ・ビワマスが旬の主役になる。

 琵琶湖で獲れる鮎は「小鮎」と呼ばれる、琵琶湖固有のもので、本来の遡上鮎より小型のままで一生を終える。これを丸ごと佃煮、塩焼き、天ぷらにする。十月の小鮎は秋の終わりかけで、夏の最盛期からは少し型を落とすが、秋の脂が乗っている。小鮎は夏の風物詩として知られるが、秋までは食堂や佃煮屋の品書きに残る。元祖阪本屋のような湖魚佃煮の店で、小鮎の佃煮は通年扱われている。

歌川広重〈近江八景〉比良暮雪
歌川広重〈近江八景〉「比良暮雪」(The Metropolitan Museum of Art 蔵/CC0)

 十月の近江で口にしておきたいものを並べる。鮒寿司はニゴロブナの完成された一切れを、燗酒と一緒に。喜多品老舗・魚治・住茂登のいずれかで、本式に。一切れだけで十分で、これ以上食うと飽きが来る、というのが本物の鮒寿司の食い方である。ホンモロコの塩焼きは、秋のホンモロコは脂が乗って塩焼きにすると骨ごと食える、京の料亭の品書きにも乗るというのに納得がいく食物。ホンモロコのすずめ焼きは串に刺してこんがり煮含める、これも酒の肴に向く。小鮎の佃煮は湖国の常備菜で、湖魚佃煮の店で買って家へのお土産にする。ビワマスの刺身は十月はビワマスの初秋で、湖の鮭とも呼ばれる柔らかい身に脂が乗って近江の高級魚の代表格。いさざ豆腐は琵琶湖固有のいさざを豆腐と一緒に煮る郷土料理で、冬の入口の食。鯖そうめんは湖北の郷土料理で、塩鯖を炊いた煮汁にそうめんを浸す、湖魚ではないが滋賀県の郷土料理として欠かせない。鴨は住茂登のような店では湖の周辺で獲れる鴨を出す、秋から冬は鴨の季節。近江牛は湖魚から離れるが、近江まで行ったら食わずに帰るのは無作法な土地柄。

 琵琶湖周辺でカネヒラ釣りをした場合の一日を並べる。朝、近江高島あたりの宿を出て、湖周辺の水路でタナゴ釣り。釣ったタナゴは色を確かめて、すぐに水に戻す。これを午前いっぱい繰り返す。昼、いったん集落に戻って、湖魚を出す食堂で湖魚定食。小鮎の佃煮、ホンモロコの塩焼き、近江米のごはん。麦酒は控える。午後、もう一度水路に戻って、夕方近くまで色を見る。夕方、釣りを切り上げ、車で大津か近江高島の住茂登へ向かう。途中、喜多品老舗か元祖阪本屋に寄って、土産の鮒寿司と湖魚佃煮を詰めてもらう。夜、住茂登で本式の夕食。鮒寿司を一切れ、ホンモロコの塩焼きと刺身、ビワマスの刺身、近江米のごはん、近江の地酒——喜楽長か浪乃音——を二合。湖の南北の食を一皿ずつ並べてもらう。翌朝、宿の朝食で鯖そうめんを試して、京都駅へ抜ける。京都で新幹線に乗る前に、駅の構内で近江牛の弁当を一つ買って、車内で食う。

 タナゴを食わない代わりに、近江の湖魚を一日二日でまとめて食う。釣りと食が別系統の対象になる、というのは紀行の構成上はやや無理があるが、十月の琵琶湖周辺はそれを補って余りある食の厚みがある。十月の段取りはこれで腑に落ちた。

この欄は釣行を終えてから埋める。何を食ったか、店はどうだったか、腹案からどれだけ外れたか、外れた先に何があったか。

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