TABI シリーズ・第三話/全3話 — 開示が段階的に深まる、3本続きの記録。本記事で出自に踏み込む。
手元にアバクロンビー・アンド・フィッチのパスポート・ロッドがある。バーガンディ色のグラスファイバーに六インチのコルクグリップ、十本に解いた竿を仕舞うと六インチ半ほどの箱にぴたりと収まる。その傍らにカタログの頁を広げ、さらに隣に、仕上がったばかりの竹の竿を一本置いている。この竹の竿が「TABI」で、企画したのは私である。酔狂と言われれば否定しない。このパスポート・ロッドを初めて手にした日から、いつかこれを江戸和竿で作りたいという構想がずっとあった。
1960年代のアバクロンビー・アンド・フィッチは、今とはまるで別の存在だった。ニューヨークの本店は地階に射撃場を備え、各階に狩猟の剥製が鎮座する、冒険と旅を商う総合商社のような店であった。探検家の遠征を仕立て、ヨーロッパの鮭川へ向かう紳士にロッドを選び、大西洋を渡る船旅の身支度まで一式引き受ける。釣りは上流階級の倶楽部文化の延長にある遊びで、紳士の社交の一部だった。そういう時代に、パスポートと同じ鞄に収まる竿が企画された。カタログにはベストのポケットに入ると誇らしげに記されていて、支店名としてニューヨーク、ショートヒルズ、シカゴの名が並んでいる。
このパスポート・ロッドの来歴で最も気になるのは、シャルル・C・リッツの名前が現れるところである。パリのオテル・リッツの主人にして、フライ・キャスティングの名手。1927年、破損した竿を修理する過程で穂先と根元を柔らかく中間を張らせるテーパーを偶然見出し、六年後にこれをパラボリック・アクションと名付けた人物である。リッツは1958年にパリで国際的なフライフィッシングの倶楽部を創設し、世界中から集まる会員の前で、ホテルの酒場の前にてフライラインを弧に引いてみせたと伝えられている。そのとき手にしていたのが、このパスポート・ロッドであった。ニューヨークの店で生まれた竿がパリの最も華やかな場所に辿り着く。大西洋を挟んだ釣り文化の往来が、この小さな竿の上で交差していた。手元のパスポート・ロッドを持ち上げてみると、一・六オンスの軽さが手首に残る。この竿がかつてパリの空気に触れていたかは知らないが、触れていたと想像するほうが愉しい。
このパスポート・ロッドを製造したのは、コロラド州デンヴァーのフィリプソン社である。グラスファイバー竿の製造に先鞭をつけた工房で、もともとの源流は、アメリカ西海岸の山岳渓流で使われていたバンティ・ロッドと呼ばれる短竿にある。急峻な沢筋をマス族を追って遡る釣り人たちが携帯の便のために求めた道具で、短さと小継ぎに実用の意味があった。それが旅行者向けの企画に仕立て直されたとき、山の匂いは消え、革鞄の中の贅沢品に変わった。カタログの写真には箱が二種類載っている。一つは金色の縁取りを施した紙の箱、もう一つはスウェード革の丈夫な箱にリールまで収めた旅行セットで、どちらも釣り具というより贈り物の佇まいをしている。
私がこれを江戸和竿で作りたいと考えたのは、小継ぎの技術に共通の筋を感じたからである。江戸和竿の印籠継ぎは、継ぎ口に細い芯を仕込んで雄竿と雌竿をかみ合わせる。この技術があれば、パスポートサイズの竹竿は原理として成立する。腕のいい江戸和竿の職人にこのパスポート・ロッドを手渡し、竹で作れないかと相談したのが始まりだった。当初は並継ぎで仮組みまで進んだが、これほど小さな竿を並継ぎにすると接合部がどうしても抜けやすいことが判り、印籠継ぎに方針を改めた。六十年の時差を超えて、竹が応じた。
パスポート・ロッドの隣に「TABI」を置いて見比べる。仕舞った状態ではほとんど同じ大きさで、つなぐとおよそ五フィート。三グラムまでの小型ルアーを投げて、三十センチ前後のマス族とやり取りできる。パスポート・ロッドを手に取ると、均一な工業製品の素直な手触りがある。「TABI」を手に取ると、節の凹凸がわずかに指に当たる。同じ構想から出発して、素材と時代と技術の違う二本がここに並んでいる。
江戸和竿に小粋という美学がある。さも釣り場に向かう風体ではなく、ふらりと家を出て、釣りをして帰ってくる。「TABI」はその構えをさらに押し進めて、釣りに行くかどうかも決めないまま鞄に入れる竿として考えた。旅に連れていく。出先で気が向いたら出す。出さなくてもよい。竿が鞄の中にあるという事実だけで、旅の気配が変わる。
箱のことも考えている。アバクロのパスポート・ロッドには金の縁取りを施した紙製のケースが付いていた。あの洒落た佇まいに触発されて、「TABI」には江戸指物師に銘木の仕舞い箱を誂えたいと考えている。竿に箱まで誂えるのは道具立てとしてはやや過剰だが、旅に連れ出す竿には、そういう過剰さがむしろ似合う。
「TABI」を手のひらに載せてみる。確かな重みがある。持っていると、どこかへ出かけたくなる。旅の予定がなくても、そういう気持ちが湧いてくる。行き先は決まっていなくてもよい。竿だけ鞄に入れて、あとは出てから考える。





