水郷春日記——真鮒の乗っ込み・紀行

記録

水郷春日記——真鮒の乗っ込み・紀行

mkg

掲載 2026.05.25

四月の霞ヶ浦、乗っ込み真鮒の紀行。清流竿とフナ竿の違いを実地で見届け、ヤッカラの中で暴れる尺鮒と渡り合った一日。手元が見えなくなるまで竿を持ち続けた、というのは釣行としてこれ以上望みようがない。

 桜が散る前に行かないと間に合わない、とこの連載のどこかに書いた覚えがある。書いた以上は出かけねばならない。そういう義理のようなものが自分と自分の書いた文章のあいだに発生するのかどうかよくわからないが、ともかく四月に入って落ち着かなくなったのは確かで、今回は何人かを誘って霞ヶ浦のホソへ出ることにした。一人で行くならば好きな竿を持って好きなように失敗すればよいのだが、人を連れて行くとなると、まず道具のことを考えなければならない。

水郷の岸辺で釣りをする人々
 水郷のホソに竿を並べる。乗っ込みの真鮒を岸際に探った。

 乗っ込みの真鮒というのは、卵を抱えた腹で普段の倍近くに重くなっている魚で、掛かると存外な力で走る。その当たりを穂先で吸い込み、走りを穂持ちと穂持ち下で受け止める。フナ竿はそういう矛盾した仕事を一本に収めた竿で、手に持つと独特の粘りがある。二週間ほど前にそのことを伝えたのだが、道具の感触というのは持ってみないとわからないもので、フナ竿そのものを持っている人もいまは少ないから、似た調子のものがあれば見繕ってほしいと言い添えるよりほかなかった。

 前日の夜に電話が来て、清流竿でいいだろうと言う。清流竿は渓流の小物を相手にする竿で、穂先のしなり方からしてフナ竿とは別の物である。穂持ちの張りも穂持ち下の腰もまるで違う。折れる、と答えたが、伝わった気配がなかった。実物を並べてみれば一目でわかることなのだが、電話ではどうにもならない。

 電話を切って少し考えた。こちらはこちらで、フナ釣りにはフナ竿、ハゼ釣りにはハゼ竿という竿師の流儀に凝り固まっているところがある。和竿の世界ではそれが当たり前のことだが、当たり前というのは外から見ればただの偏りかもしれない。清流竿で乗っ込み鮒をやったらどうなるか。折れるかもしれないし、案外もつかもしれない。どちらにしても見届ける値打ちはある。竿のことは各自に任せることにして、仕掛けだけは私がまとめて用意した。道糸一号に遊動のナツメオモリ、丸カンを挟んで二本針が出せるようにし、セル玉のシモリを六つほど通した。フナ針は六号を基本に八号も予備で持つ。エサは中から特大まで揃えたキジである。仕掛けが底に着いたところでセル玉の浮き沈みを読んでアタリを拾うのだが、この読み方だけは口で教えるわけにはいかない。水辺に立って自分で覚えるほかないのである。

 当日、最初に向かったのは霞ヶ浦では名の通った場所で、乗っ込みの時期なら何人かの竿が並んでいてもおかしくないところだが、着いてみると誰もいなかった。周囲の田に水が入り始めている。田植えの水が流れ込むと水路の流れが変わって魚の居場所が動くから、ここはもう時期が過ぎたのだろう。竿を出さずに車へ戻って次の場所へ走ると、今度は景色がまるで違っていた。ホソの中で尺に近い真鮒が何匹も水面を叩いて暴れている。卵を抱えた腹を水草に擦りつけるように動き回り、その勢いで水面がうねるように盛り上がる。乗っ込みの盛りが、そのまま目の前にあった。

 ところが水がひどかった。黄土色というべきか、どこまでが畑の土でどこからが水路の水なのか見分けのつかない暗い茶色に濁りきっていて、底はまるで見えない。これだけの魚が目の前で騒いでいれば竿を出さずにはいられないので仕掛けを入れたのだが、魚が脇を通るたびにシモリ玉が揺れて、当たりなのか水の動きなのか判然としない。わからないまま反射的にアワセると当然何も掛からず、引き上げた針にはヤッカラに絡んだフナの卵がびっしり付いてくる。真鮒の代わりに掛かるのはきまってナマズで、たまに鮒らしい手応えがあっても食いが浅く、すぐに外れてしまう。水草の奥に潜られて糸を切られたことも一度ではなかった。生命の気配は目の前に溢れているのに、こちらの仕掛けはまるで相手にされていない。魚がいるということと魚が釣れるということが別の話だとは知っていたつもりだが、こうして現場で突きつけられると、なかなか堪えるものがある。

 午後二時を過ぎていた。朝から何も食べていないことに、そのとき初めて気がついた。食べるどころか、食べるということ自体をすっかり忘れていたのだから、段取りも何もあったものではない。一時間ほどかけて最後の場所へ車を走らせた。

 着いてみると水面に気配がなく、釣り人もいない。諦めかけた顔をしている者もいたが、ここまで来て竿を出さずに帰るわけにもいかない。ともかく仕掛けを入れた。午後三時を過ぎた頃だったと思う。ホソの合流するあたりに真鮒が何匹かモゾモゾと集まっているのが見えた。水はさきほどの場所ほどには濁っておらず、仕掛けを落とすと今度はすぐにシモリ玉が沈んだ。さきほどまでの、魚が通るたびにゆらゆら揺れるだけの動きとはまるで違う、はっきりした引き込みであった。

水面に現れた真鮒
 掛かった真鮒が水面を割る。

 ここから先は全員が釣れた。清流竿の者も釣ったのだが、やり取りの最中に竿が弓なりに撓んで、見ているこちらは折れるのではないかと冷や冷やした。合間に私の竿と並べてみたところ、穂先から穂持ち、穂持ち下にかけての太さが一目でわかるほど違っている。なるほど、という顔をしていたが、それでもまた清流竿のほうで振り込んでいるのだから、釣りの最中に竿を替えるのが面倒だという、ただそれだけのことかもしれない。やっぱりフナ竿のほうがいいね、と誰かが言ったのは、もう何匹か上げてからのことだった。二週間前の電話の件がここでようやく少し実を結んだように思う。

 延べ竿でのやり取りを傍で見ていると、どうしても竿を立てすぎる。魚の力を竿の胴で受けようとするからそうなるのだが、負担が一か所に集まって竿にも魚にもよくない。腕を伸ばして竿と一直線にし、水平よりやや上の角度で竿全体の弾力を使ってやる。魚が引く方向と逆にいなして逃げ道をこちらで決め、水面に浮かせて空気を吸わせれば次第に弱るから、弱ったところを自分の手で玉網に掬う。口で言えばそれだけのことなのだが、これが腕に入るまでには何匹か掛けて何匹か外して、また掛けるしかない。そうしているうちに竿を持つ手が少しずつ柔らかくなっていくのが、隣で見ていてもわかった。釣りの覚え方は竿の感触と同じで、言葉より先に手が覚えるものなのかもしれない。

 気がつくと日が暮れかけていた。手元が見えなくなったので車のヘッドライトを点けたのだが、その明かりの中でまだ竿を振っている者がいる。私もまだ振っていた。お目当ての飲食店には結局たどり着けず、朝も昼も何も口にしないまま一日が過ぎようとしている。段取りの腹案は今回も本案にならなかった。ならなかったのだが、それを惜しいとは少しも思わなかった。

 手元が見えなくなるまで竿を持ち続けた、というのは、釣行としてはこれ以上望みようがない。人も魚も狭いホソに乗っ込んで来て、暮れるまで夢中になっている。乗っ込みというのは、どうやら魚だけの話ではないらしい。

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