苫小牧の寿司屋を出たのが八時半で、車はそのまま北へ向いた。猿払までは三百五十キロある。明日どこへ行くかを話していたはずが、皿を積んでいるうちに今夜のうちに着く話になっていて、決まった途端に誰かがエンジンを掛けた。そういう連中である。私は助手席で荷を足元へ寄せ直した。
夜半を過ぎて道端の店へ入った。棚の前にしゃがみ込んで、買うものも決めずに品を眺めている者がいる。深夜の店というのは、買うものが決まっていても一度は端から端まで歩くところである。硝子の向こうの蛍光灯だけが白く、外は何も無い黒であった。国道へ戻ると霧が出ていて、前照灯の光が霧の中で丸く止まり、その先が読めない。信号が二つ、緑のまま遠くに浮かんでいた。
ここには昔、鉄道が通っていた。天北線という。音威子府から浜頓別を抜けて鬼志別を通り、南稚内まで。猿払にも駅があった。一九八九年の五月に廃止されている。廃止のとき、まだ急行が走っていた。第三セクターにも移らず、走らせたまま線ごと畳んだ例は、この線が最初だという。走っている列車を止めて畳む、というのは、順番が逆のような気がする。
二時四十分に釣り場に着いた。水の向こうに橋の灯りが一列、手前は葦と黒い水である。砂利道を少し進んでは止まり、灯りを向けると葦だけが黄色く立ち上がって、その奥は黒かった。


この川は一年で三ヶ月以外はイトウ釣りを控えるよう言われている。法ではなく土地の人がそう決めて頼んでいるだけで、罰も無い。解けているのは六月と、九月から十月までである。残りの九ヶ月のうち、夏の二ヶ月は渇水と高水温が上流の稚魚を痛めるからで、冬から春は産卵にかかるからだという。九月の二十日は、その三ヶ月の中に入っている。罰の無い決まりは、破っても何も起きないという意味でもあるが、それでも守るのがここの作法なのだろう。
暗いうちも竿は出さなかった。夜の釣りは危ないから控えるように、これも言われている。三時間、暗い中で待った。することは何も無く、寝る者は寝て、私は寝られなかった。
そのうち、雲が青く割れた。手前に一本、葉の赤い木が立っていて、その先に葦原が暗く広がり、雲がその上に低く乗っている。この日はじめて、自分がどういう場所に立っているかが見えた。葦原と、その切れ目の水と、空である。それだけで、ほかに何も無い。

明るくなるのを待って川べりへ下りると、標識が立っていた。二級河川猿払川水系、猿払川、とあって、下に川の名の由来が書いてある。アイヌ語のサㇽプッで、葦原の河口、という意味だという。猿の字は音を当てただけで、猿とは関係が無い。夜のうちに見たものは、名前のとおりのものであった。

しばらくして、水が鏡になった。風が無くて、雲がそのまま水に乗っている。この日の湿度は一日の平均が九十八で、降ってはいないのに空気の方が濡れている。葦の切れ目に胴長で入って、竿を振る者がある。水面に映った姿の方が本人よりはっきりしていて、投げた糸の輪だけが水を乱した。


竿は三本とも竹である。砂利の上に並べると、飴色の竿にコルクの握りと小さなリールが付いていて、朝の光で節がひとつずつ数えられる。大宮の住宅地の隅で屋根に載せた、あの竿である。二晩走って、船で八時間揺られて、ここまで来た。竿は何も変わっていない。周りだけが変わった。

狙いはイトウであった。日本でいちばん大きくなる淡水の魚で、一メートルを超えるのに十五年かかるという。春の短いあいだだけ産卵に川を上り、済めばまた河口や海へ下る。九月のイトウは上ではなく、下にいる。私たちが立っているのは、その下のあたりであった。
日が上がっても、何も起きなかった。砂利道を移って、また投げる。枯れ草の上に白い毛鉤が一つ落ちていて、誰かが結び替えたまま置き忘れたものらしい。拾って、荷台へ戻した。釣れない時間に残るのは、そういうどうでもいい物の記憶である。

八時四十七分に、水面が割れた。鏡が一箇所だけ盛り上がって、輪が広がる。竹が曲がった。寄せているあいだ、魚は一度も跳ねず、茶色い水の下を影のまま近づいてくる。すぐ横に枯葉が一枚浮いていて、その葉が動かないので、魚の方が動いているのが分かった。

八時五十二分に玉網へ入った。赤い枠の、結び目のある網である。入ってきたのは銀色の魚で、鱗が大きく、頬から鰓蓋にかけて金色に光っている。目が大きい。口は小さく、吻は丸い。斑点は無い。イトウではない。ウグイである。竹の竿を網の上に横たえたまま、しばらく見ていた。


ウグイはコイの仲間で、サケの仲間ですらない。狙った魚とは筋からして違う。ただ、酸のきつい水でも生きる魚で、田沢湖に酸性の水を引いてクニマスが絶滅したとき、残ったのはウグイだった。上流から河口まで居て、北へ行くほど海へ下るのが増える。つまりこの川では、イトウがしているのと同じことをしている。片方は十五年かけて一メートルになり、罰の無い決まりで守られている。片方はどこにでも居る。来たのは後者である。網を傾けると、一度だけ身をよじって、茶色い水の中へ消えた。
そのあとは何も来なかった。竿を水面へ向けたまま、リールに手を掛けて立っている時間が続く。九時を過ぎて日が差し、葦の根元に黄色い花が咲いているのに気がついた。夜には無かったものである。無かったのではなく、見えなかっただけである。

昼は村の施設で帆立を食べた。貝柱を並べた丼で、真ん中に卵黄が乗っている。この村はかつて帆立を獲り尽くして、昭和三十九年に資源が完全に枯れた。それを、獲らない決まりを自分たちで作って取り戻している。全部獲るとどうなるかを一度ちゃんと経験した村だから、川の魚についても罰の無い決まりを作って、それを守れと言う。言う側に説得力があるのは、そのせいだろうと思う。丼の帆立は、戻ってきた方の帆立である。戻ってきたおかげで、この村の平均の稼ぎは全国でも指折りだという。獲らないと決めて豊かになった村が、罰の無い決まりで、獲らないでくれと言っている。

この村の沖では、昭和十四年の十二月に、ソ連の船が座礁している。インディギルカ号という。マガダンの港からウラジオストクへ向かう途中で暴風雨に遭い、宗谷岬の位置を見誤ってこの沖の岩礁に乗り上げた。村の人間が四百二十九人を引き上げた。それでも、十二月十四日の午前十時までに岸で収容された遺体が二百九十三体あって、死んだのは七百人を超えるとみられている。詳しい数は、当時のソ連の側の都合で伏せられた。三十年ほど経って、道の駅の近くに慰霊碑が建った。土台にはシベリアの石が使われている。向こうから送られてきたものだという。
私たちはその碑を見に行っていない。行っていないので、碑のことはこれ以上書かない。ただ、朝から竿を出していたのは、その岸である。獲り尽くした帆立を自分たちの決まりで取り戻した村で、沖で七百人が死んで、村の人間が四百二十九人を引き上げた岸で、私たちはウグイを一尾釣って放している。
昼過ぎに、牧草地の脇で車を止めた。ロールベールの並ぶ広い畑で、空が異様に大きい。連中の一人が草の上に大の字で寝て、白いものを顔に被せた。二晩ほとんど寝ていないのだから当然である。私は靴を脱いで素足を草に投げ出し、雲が寝ている人間の上を通り過ぎるのを見ていた。

昼を回ってから川へ戻った。午後の水は緑がかっていて、葦の間を細く曲がっている。掛かったのは、頭が平たくて胸鰭の大きい、掌に乗るほどの底の魚であった。桃色と水色のスプーンを咥えている。一メートルを狙う仕掛けに、これが来る。針を外してやりながら、笑うよりほかにやりようが無かった。

そのうち空が晴れて、水が青くなった。朝の鏡は灰色だったが、夕方の鏡は青い。葦の縁に竿を水面へ向けて伸ばしたまま、誰も喋らない。糸は動かない。


日は五時過ぎに落ちた。葦の穂が桃色の空を背にして立ち、その上に、半分ほどの月が先に出ていた。水はその全部を映している。竹の竿だけが、水の上に一本、斜めに残っていた。イトウは一度も見なかった。見なかった魚のために来て、見なかった魚のために三時間待ち、違う魚を放して帰る。この土地の名は葦原の口で、口というのは、出ていくところでもある。






