名寄の宿を出たのが二時五十分である。街灯の下に車を寄せて、荷台の蓋を開けて、要る物と要らない物を分けている。尾灯が赤く点いたままで、その赤が濡れた舗装にひと筋伸びていた。寝たのは三時間ほどで、眠ったのか目を閉じていただけなのかは自分でも判じかねる。通りへ出ると信号が一つ、誰もいない交差点で青から黄へ変わり、また青へ戻った。見ている者がいなくても、決まった通りに変わる。北の町の夜中というのは、こういう静かさである。


名寄から朱鞠内までは、昔は鉄道が通っていた。深名線という。深川から幌加内を抜けて朱鞠内を通り、名寄まで百二十一・八キロある。営業係数はいつも全国の悪いほうから十番以内で、赤字の線を切る話が出るたびに候補へ挙がった。それでも残った。一九八〇年に特定地方交通線として切られかけたときも、代わりの道路が整っていないという理由で見送られている。道が無いから残った線である。そのあと道路の整備が進んで、一九九五年の九月四日に廃止された。道が通ったから消えたことになる。私たちが二時五十分に走っていたのは、その道である。ヘッドライトの先に出てくるのは同じ幅の舗装と、同じ間隔の反射板ばかりで、ここに線路があったと言われても、言われるまでは思わない。
まだ暗いうちに湖へ着いた。車の中で紙を広げている。地図と、守ることの書かれた案内である。釣ってよい時間も、使ってよい針も決まっている。日の出の一時間前から日の入りの一時間後まで。針はシングルフックのバーブレスに限る。券を買って入る。三日目の猿払が罰の無い自主規制で、四日目の滝上が罰則の無い条例だったのに対して、ここは規則である。頼む形ではなく、買って守る形だ。三日かけて、頼みから規則まで、決まりの立ち方を順に見てきたことになる。北へ上がるほど厳しくなるというより、残っているものほど厳しく囲われている、というのが近い。

湖はまだ黒かった。雲が横に長く伸びて、その下の縁だけが鈍く光っている。島の影が水に落ちて、影のほうが島より黒い。風が無く、水が動かない。動かない水は音を出さないので、聞こえるのは自分の胴長が擦れる音と、誰かが石を踏む音だけになる。手が冷えるが、手袋を出すほどではない。この「出すほどではない」が、あとから効いてくる。

そのうち、島の輪郭が出てきた。水面が桃色を取って、その色が岸まで届く。砂利の岬に人影が二つ、一つは歩き、一つはしゃがんでいる。二人とも同じ方を見ていて、同じ方へ投げている。夜明けというのは、明るくなることよりも、何を見ているかが分かるようになることなのだと思う。




岸が広い。水際から後ろへ、石と泥の地面が十歩以上ある。湖の水が引いて、湖底だったところが露わになっているのである。自然の湖ならこうはならない。ここは人造湖で、水位は人が決める。乾いた泥に靴が浅く沈み、少し先に白く晒された流木の根が横たわっている。去年の水位の跡が、岸の斜面に横一線で残っていた。

朱鞠内湖という。一九四三年に雨竜第一ダムが出来て、それで谷が水に沈んでできた。湛水面積は二十三・七三平方キロあって、人が作った湖としては日本でいちばん広い。工事は一九三八年から始まっている。戦争の最中で資材が足りず、冬は氷点下四十度まで下がる場所である。その工事には日本人と朝鮮人が動員され、劣悪な現場で多くが死んだ。一九七六年に近くの寺の本堂から工事の犠牲者の位牌が七十基余り見つかり、一九八〇年には墓地の脇の笹薮から遺骨が出た。掘り起こしたのは行政ではなく、有志である。二〇二四年の秋に、その記録を展示する館が開いた。私たちが竿を出している岸は、その水の縁にあたる。水面が広いという言い方を、この湖については少し慎重にしたほうがいいと思っている。広いのは、沈めた面積のことでもある。ついでに書いておくと、この町の母子里というところで、一九七八年の二月十七日に氷点下四十一度二分が記録されている。気象庁の観測の対象から外れていたので公式の記録にはならず、公式の方は明治三十五年の旭川の四十一度〇分である。非公式の方が〇・二度低い。低い方が記録にならない、という話も、この土地では続いている。
ここはイトウで名の通った湖である。三日目の猿払でも狙って、出なかった。四日目の滝上は毛鉤で、これも出ていない。四日走って、一度も掛けていない魚を、五日目に、いちばん名の通った水で狙っている。こういう並びになると、人は自然と、今日は出るだろうと思う。根拠は無い。根拠が無いことを自分でも分かっていて、それでもそう思う。
竿は相変わらず竹である。大宮の住宅地の隅で屋根に載せた、あの飴色のやつに、ガイドと小さなリールが付いている。五日目になってもこの竿は何も変わっていない。

夜が明けかけた頃、連中の一人が腕を上げて腕時計を見ていた。画面にドット絵の魚が一匹いて、その横に「ちびうを」と書いてある。下に「おもいで 〇/三」。水温を測ると、その水にいる小さな魚が図鑑に増える、という遊びらしい。まだ作っている途中のもので、世に出てはいない。名前はここには書かないでおく。そこから十分ほど、その人は胴長で水に入って、腰を折って、前腕を沈めていた。緑がかった水の下で、時計の画面だけが緑に光っている写真が残っている。魚を釣りに来た者が、魚を釣らずに、魚の絵を集めようとしている図である。私はそれを、わりと真面目な顔で見ていた。



五時間、竿を振った。夜明け前から十時過ぎまでである。投げて、巻いて、二歩ずらして、また投げる。この二歩を、五時間ぶん繰り返す。三十分も経つと、投げた先の景色が全部同じに見えてきて、一時間経つと、自分がさっきここへ投げたかどうかが分からなくなる。分からなくなってからが本番だという言い方もあるが、分からないまま四時間が過ぎることもある。


途中で日が高くなった。岸の色が茶に変わり、水の色が灰から青へ動いて、対岸の森に個々の木が見えるようになる。朝には黒い塊でしかなかったものが、落葉松と白樺に分かれていく。手は冷えたまま戻らない。そのあいだ、何も来なかった。当たりも無い。糸の先で何かが触れた気配すら、一度も無かった。五時間というのは、書けば二文字で、立っていると五時間である。

そのうち誰かが竿を畳みはじめた。舗装の上に並べて、順に袋へ入れていく。畳むときは、誰も何時まで粘るかを言わない。一人が畳みはじめると、順に畳む。綺麗なところだったな、と誰かが言って、そうだな、と誰かが返した。それだけである。釣れなかった日の岸で交わされる言葉は、たいてい景色の話になる。景色の話しか残らないからで、そして景色は本当に綺麗だった。
そばを食いに行くことになった。この町はそばの作付面積が日本一で、刈り入れは九月の頭から十月の頭までが盛りだから、ちょうどその只中に居合わせている。そばに向くのは冷涼な気候と、昼夜の寒暖の差と、日中の気温の上がりを抑える朝霧だという。つまりこの町にそばを作らせているものは、氷点下四十一度二分を出したものと同じである。寒さが名産を作り、その同じ寒さが記録を作り、ついでに谷を沈めるのに都合の悪い工事現場も作った。


そばには、たどり着かなかった。南へ下りる途中で見た川が気になって、車を降りてしまったからである。決めたのは誰でもない。窓から見えた水の色が良かった、というくらいの話で、そういう理由で車が止まるのがこの連中である。
草の上に黒いものがあった。糞である。実の粒が潰れずに残っていて、表面が乾いていない。撮った写真には、大きさが分かるように靴の先が入れてある。写した本人も、撮りながら比べている。熊のものだ。新しい。それからしばらく、入渓地点を探して彷徨った。どこから下りるかという話をしているのだが、話の半分は、下りていいのかという話である。声が少し大きくなる。手を叩く者がいる。笛は誰も持っていない。誰も帰ろうとは言わないし、誰も大丈夫だとも言わない。その二つを言わないまま、藪の切れ目を探して二十分ほど歩いた。


川べりの砂と泥に足跡があった。一つではない。前足と後ろ足が並び、指の跡の先に爪の跡まで残っている。大きいのと、そうでないのが混じっている。水を飲みに下りてきて、上がっていった跡で、縁の崩れ方を見るかぎり、今朝のものだろうと思われた。ここは彼らの川である。私たちは、その川へ入ろうとしている。しばらく誰も喋らなかったが、それは足跡に驚いたからというより、入るか入らないかを各自が勝手に決めている時間だったからだと思う。結局、全員が同じことを決めた。

水は渇水気味で、いつもより低かった。低いというのは、魚にとっては隠れる場所が減るということで、人にとっては、立てるということでもある。膝から腿までの深さで、底は砂と小石。両岸が柳で塞がっていて、空だけが細長く開いている。声は届くが姿は見えない、という距離に散った。


当たりが出たのは、入ってすぐだった。一つではない。同じ筋へ通すと、同じところで同じように出る。出て、乗らない。また出る。そういうのが続いて、十回を超えたあたりで数えるのをやめた。そして少し動くと、ぱたりと無くなる。十メートル下がっても、十メートル上がっても、何も無い。あるのはその一箇所だけで、あとは静かである。川は全部同じ水のように見えるが、魚は全部を同じには使っていない。頭では知っていることを、体で分からされるのが、この種の日である。
小さいのが、果敢に当たってきた。掛かりきらない大きさのものが、匙の後ろを何度も突く。そのときは小魚だと思っていた。いま振り返ると、あれもイトウだったのだろうと思う。掛からない大きさの個体が、自分より大きな金属を、何度も追ってくる。そういう魚だという話を、いくつも読んできたはずだった。
そして、掛かった。十二時五十二分である。掛かってからは、思ったより静かだった。走らず、跳ねず、重いだけの引きが二度あって、竿が胴から曲がったまま戻らない。叫んだ者はいない。声を出したら外れるとでも思っているような、妙に慎重な足の運びで、三人が同じ方へ寄っていった。網を持つ手が先に出て、水の中で構えられる。この間がいちばん長い。実際には何十秒かのはずである。
網に入った。黒い袖の手のひらに乗せて、水に浸けたまま持ち上げる。背から脇にかけて細かい黒点がびっしりと出ていて、腹は銀、頭のあたりが黄緑に濁っている。細長い。口が大きい。口の先に、銀と黒の小さな匙がぶら下がったままだった。四日走って、五日目に、はじめて見る顔である。川に棲むイトウというのは、こういう形をしている。

持っている手が、はっきりと震えていた。寒さではない。水温を測りたければ機械がやってくれるし、湛水面積も最低気温も誰かが数えてある。震えは誰も数えていない。誰も何も言わなかった。言うことが無かったのではなく、言葉にすると少しこぼれるのが分かっていたのだと思う。
入ったのは雨竜川である。朝に立っていた湖は、この川を堰き止めて作ったものだった。雨竜川は北の山から出て、湖を抜けて、百六十キロ走って石狩川に合わさる。つまり朝と昼で、同じ一本の川に二度立っていたことになる。名の付いた側で五時間振って何も来ず、名の無い曲がりで出た。水のほうは、どちらでも同じ顔をしている。
指を外すと、一度だけ身を震わせて、茶色い水の中へ消えていった。そのあと網を水へ戻して、そこで終いにした。もう一尾出るかもしれない場所ではあったが、誰もそうは言わなかった。

測る、というのは妙なことである。この日、水温は測られ、湛水面積も、最低気温も、線の営業係数も、みな数えられている。数えられたところに魚はいなかった。魚がいたのは、名前も測りもない曲がりで、そこには熊の足跡のほうが先に付いていた。四日走って、五日目である。長かったかと言えば、長かった。知らない水を一つずつ開いていく日は、一日の中身が一日ぶんでは済まない。数えれば五日で、体のほうは、もっと居た気がしている。



