夜が明けたのは岩手のあたりで、雨であった。フロントガラスに細かいのが当たって、前を行く車の尾灯が二つ、滲んで見える。空は白いのか灰色なのか判じかねる色をしていて、そういう色の朝に高速を走っていると、自分がどこへ向かっているのかを一度忘れる。忘れたまま、車は北へ走っている。

七時過ぎに八戸の港へ着いた。フェリーの乗り場である。船は白い船体に赤い印を付けて、桟橋の向こうに横腹を見せて停まっていた。待合の窓は雨で流れていて、その向こうに車の列が見える。運賃の控えを見ると、一万二千円と刷ってあった。車ごと海を渡るというのは、考えてみればずいぶん横着な話である。

乗り込む前に放送が入った。台風のうねりが入っているので相当に揺れる、覚悟しておけ、という意味のことを船長が言う。言い方に妙な力が籠っていて、あれは脅しである。港の内側は油を流したように凪いでいて、そういう海を眺めながら聞く警告ほど、真に受けにくいものはない。
その日の未明、大型の台風二十五号は父島の南西百九十キロを西北西へ進んでいた。こちらから千数百キロ南である。遠いではないか、と私は思った。千数百キロというのは、昨夜走ってきた東北道の倍ほどある。昨日の夜から今朝までかけても着かない場所の海が、これからこの船を持ち上げる。
船室は一等を取ってあった。二段の寝台が二つ向かい合って、窓が一つ、奥に小上がりがある。前の晩から走り通しだった者は、上の段へ荷を放り上げて、そのまま横になった。私は寝つけないので甲板へ出た。雨は上がっていたが風は冷たく、手摺の向こうは灰色の海で、水平線がどこにあるのか分からない。


港を出てしばらくは何ということもなかった。変わったのは外海へ入った頃からで、船首が持ち上がって、間を置いて落ちる。落ちた先で、船底を下から叩かれる。どん、と腹に響く音が、律儀に同じ間隔で戻ってくる。律儀、というのがこの音の厄介なところで、乱暴に揺れるのなら身構えようもあるのだが、同じ間隔で来るものは、次がいつ来るかを体が先に知ってしまう。
うねりというのは、風の吹いている海域を離れてから伝わってくる波のことで、風浪と違って形が丸く、波長も周期も長い。数千キロ南の台風で起きた波が日本の沿岸まで届くことがあって、夏のそれには土用波という名前まで付いている。名前が付いているというのは、毎年来るということである。毎年来るものにしか、人は名前を付けない。遠いではないか、と思った私が浅かった。
船室へ戻ると、みな同じ顔色をしていた。青いというより白い。誰も喋らない。喋ると来るのが分かっているからで、それぞれ寝台の縁を掴んで、天井のどこか一点を見ている。船に酔った人間が揃うと、妙に静かになるものである。八時間のうちの半分ほどは、この静けさであった。
昼を過ぎた頃、雲の切れ目から光が落ちて、海の一部だけが白く光った。灯りというより、そこだけ海が薄くなったような光り方である。甲板でそれを見ているあいだだけは、揺れていることを忘れていた。忘れられるのは揺れで、揺れた覚えのほうは残る。

四時前に車両甲板へ下りた。積み上げられた荷と車の列のあいだに、屋根へ竿を載せたままの黒いピックアップが停まっている。船の腹の中で見ると、ずいぶん小さい。扉が開いて外の光が入ると、そこはもう北海道であった。


上がったのは苫小牧である。町の名より先に、煙突と、白い湯気が目に入る町だ。ここに紙の工場が置かれたのは明治四十三年で、当時の日本は新聞に使う紙を輸入に頼っていた。それを国の中で作るために、山に囲まれていて、背後に支笏湖の水がある土地が選ばれた。湖の水は紙を漉くのにも使うし、落として電気にもなる。いまも単一の工場としては世界でいちばん大きい新聞用紙の工場で、国内で要る紙の四分の一ほどがここから出ていく。
港のほうも、もとから在ったものではない。天然の湾があったわけではなく、昭和二十六年から後に陸を掘り込んで作った人工の港である。つまりこの町は、紙も港も、無かったところに人が置いたものでできている。置いて、それで回るようになった。私たちはその町へ、置き換えられた側の道具を屋根に載せて上がってきたことになる。
その足で郊外の釣具屋へ寄った。広い店で、通路の両側にカーボンの竿が何百本と並んでいる。その並びの端に硝子の陳列棚があって、中に桐の箱が一つ横たわっていた。蓋に墨で字が書いてあって、隅に朱の落款が捺してある。出してもらうと、飴色の竹の継ぎ竿である。江戸和竿の流れをくむものだという。


江戸和竿は系譜で決まる。東京で作られた竿であっても、系譜に属さない職人のものは江戸和竿に入らない。始まりは上野広徳寺前の東作で、その創業の年は資料によって割れる。当人のところは天明三年と言い、行政の刷り物は天明八年と書く。五年ずれたまま、どちらも直さずに今日まで来ている。その東作の弟子に釣音が出た。釣音の実子が竿忠、竿忠の叔父にあたる傍系が竿治、竿治の弟子が竿辰とされる。まっすぐな一本の系図ではない。
現存する竿師の一覧に、寿作という名がある。この竿は寿作の弟子の昇作で、昇作は韓国で竿を作っていた。寿作は日本の外へ技を広げるのに熱心な人であった。ただ、昇作という名は公に出ている竿師の一覧には無い。寿作の弟子筋という話も、韓国で作ったという話も、出ているものには出てこない。系譜で決まる商売の竿が、その系譜の側に足跡を残していない。私が知っていることと、出ているものとが合わないというだけのことではあるが、確かめようがないということは書いておく。
気になるのは竹の出どころである。和竿の握りに使うのは布袋竹で、根元の節が不規則に膨らんでいて布袋の腹に似ているから、その名が付いた。あれは中国の長江の流域あたりが原産で、日本へ渡ってきて自生するようになったものである。穂のほうに使う矢竹は本州から九州にあって、植えられて広がったといわれる。韓国で継いだ竿なら、竹は向こうのものか、こちらから持って行ったものか。握ってみて分かるという類のことではない。ついでに言えば、布袋竹の釣り竿が外貨を稼ぐ花形だった時期が、この国にはある。作って外へ出していたのは、こちらのほうである。
店の床で継いで握ってみせた。カーボンの列を背にして竹の竿を持っている図は妙なもので、店の者も何も言わずに見ていた。継ぐ音がしない。継ぎ目が合うと、手のひらに伝わる感じだけが変わって、それで一本になったことが分かる。

妙も何も、この竿の商売を畳ませたのがそのカーボンである。グラスとカーボンが出てから需要は急に落ちて、多くの竿師が廃業した。畳ませた側が何百本と並んでいる前で、畳まされた側が一本だけ硝子の中に寝ている。この町の紙も港も、無かったところへ置かれて町になった。置かれたものが勝つ、という話でいえば、これも同じ話のはずである。ただ、置き換えられた側がこうして硝子の中に一本残っているところが、紙や港とは違っている。
分からないのは、なぜこれがここにあるかである。江戸で生まれた系譜の竿が、境を一つか二つ越えて、誰かの手を幾つか渡って、苫小牧のロードサイドの硝子箱に入っている。誰が持ち込んだのかも、どの順で流れてきたのかも出てこない。来歴を書いた紙は付いていない。竿は黙っている。結局、二時間以上その店にいて、私も黙って蓋を閉めた。
夜は寿司にした。北海道へ来たのだから寿司を食う、という以上の理屈はない。回転の店で、黒板に、九月十九日、本日の一押し、増毛産の南蛮海老、二貫で五百三十九円、と書いてある。南蛮は唐辛子のことで、色と形が似ているから、日本海の側ではこの海老をそう呼ぶ。増毛も羽幌も日本海に面した町で、その海の海老が、太平洋側のこの町の皿に回っている。海老は甘く、貝は歯に鳴り、穴子は箸で切れた。揺られ通しで空になった腹には、回ってくるものを取るくらいがちょうどよい。



皿を積みながら、明日どこへ行くかの話になった。天気を見て、道北へ上がることにしたらしい。初めは礼文へ渡るつもりだったが、島の宿が取れなかった。それで猿払を目指すことになった。携帯の地図に猿払川が出ていて、細い水色の線が、北の端の方をくねって走っている。行ったことのない川の名を、私は皿の上の海老を噛みながら聞いていた。



