三月のチヌの食を書く。三月のチヌ釣りは、釣り場の選択肢が紀州・大阪湾・東京湾と三方に散らばる。今年はその三方を一年で回すような器用な真似はせず、紀州(和歌山)一本に集中することにした。釣法名に「紀州釣り」を残してくれた土地の食を、まず一度ちゃんと書きたい。瀬戸内や東京湾は別の年の宿題として外しておく。実訪問の記録はこの稿の末尾に追記する。

歌川広重/国立国会図書館(パブリックドメイン)
和歌山(古くは紀伊国)は、海と山の食が至近距離に並ぶ土地である。海岸線に沿えば生マグロ、カツオ、伊勢海老、クエ、サンマ。山に分け入ればめはり寿司、なれずし、紀州梅、茶粥。一日のうちに海と山を往復できる土地で、釣り師の旅としても都合がよい。
和歌山県北部の磯場(田ノ浦、加太、和歌の浦)は、紀州釣り発祥の地とされる土地である。釣り場の近くに、漁師の朝市や、地物を出す食堂が点在する。和歌山県内の魚介の出る店として、生マグロ・サンマ寿司・クジラ・クエ・マンボウまで、土地土地に応じた店が並ぶ。釣り場の近くで朝飯か昼飯を取るなら、漁港のすぐ脇にある食堂を狙うのが筋である。紀勢線沿いの駅ごとに、その土地の魚を食わせる店が並んでいるので、釣り場の隣駅で店を一軒、というのが旅の組み方として無理がない。
夜、釣りを終えてから腰を据えて食うとなれば、和歌山市内まで戻ることになる。和歌山市の老舗で検索をかけると、海鮮料理屋、寿司屋、和食処と、いくつかの古い店が並ぶ。私はまだ和歌山に通った経験が浅く、特定の店を「ここに決めた」と言えるほどの蓄積がないが、紀州の魚を真面目に出す店を一軒、釣行のたびに開拓していくつもりでいる。和歌山のご当地品書きには、和歌山ラーメン・めはり寿司・なれずし・くえ鍋・紀州梅が並ぶ。紀州釣りの帰りに、和歌山ラーメンで一日を締める、というのもアリだろうと思う。釣りの翌日に紀州梅を土産に買って帰る、というのもいい。
チヌの料理から紀州の春の食まで、私が口にしたいものを並べる。乗っ込みの黒鯛は産卵を控えて栄養を蓄えており、身が締まっている。釣ったその日に活きの良いものを刺身か洗いにすれば、白身に磯の香が乗る。釣り宿で出してもらえれば、これが本式である。塩焼きは脇骨が硬いので火加減を加える、というのが料理人の言い方だが、家ではうまくいかない。料理屋で出してもらうのが安全である。三枚におろした残りの頭と骨を、醤油と味醂で煮詰める兜煮・あら煮は、これは家でもできる。釣ってきた魚を全部刺身にして余ったあら、というところから出てくる料理で、これがまた飯にも酒にも合う。
和歌山県は那智勝浦を筆頭に生マグロの水揚げで知られる。釣りの本筋ではないが、紀州に行ったら生マグロを食わずに帰るのは無作法である。三月から四月にかけては初鰹の走りで、これも紀州・那智勝浦の名物、たたきにして食う。サンマ寿司・なれずしは紀州の郷土寿司で、サンマを酢で締めて棒寿司にしたもの、あるいは塩漬けにして発酵させたなれずし。これは郷土料理屋でないと出てこない。くえ鍋は冬の魚だが、三月の早い時期ならまだ間に合う。白浜あたりでクエ料理を出す店がある。チヌ釣りに行って夜にクエを食う、というのは少し贅沢が過ぎるかもしれない。めはり寿司は山の方の郷土食で、高菜の漬物で握り飯を巻いたもの。釣り場の昼飯に、おにぎりの代わりとして持っていける。紀州梅は土産で、釣りの帰りに駅で買って帰る。これだけで紀州に行った証拠になる。
紀州・田ノ浦あたりでチヌ釣りをした場合の一日を並べる。朝、和歌山市内の宿を出る前に、宿の朝食でめはり寿司かなれずしを食っておく。これで紀州の食の最初の一歩を踏む。午前、釣り場へ移動。途中の漁港の朝市で、その日の魚を見ておく。釣りに合いそうな小物を買って餌の足しにする、ということもある。昼、釣り場の近くの食堂で地物の海鮮丼か刺身定食。麦酒は半合のみ。午後、釣り続行。乗っ込みの大物が出れば、その日の段取りが大きく変わる。釣れすぎても、釣れなすぎても、夜の食の楽しみは変わらない。夕方、釣りを切り上げて、和歌山市内へ戻る。道中で生マグロを食わせる店に寄って、刺身を一皿だけ取る。これは前菜のつもりで、本式の夕食ではない。夜、市内の海鮮料理屋か寿司屋に上がる。チヌが釣れていれば持ち込んで刺身にしてもらえる店もあるかもしれないが、これはあまり期待しない。店の出すものを店の流儀で食う。冷酒を一合か二合。翌朝、駅で紀州梅を一袋買って、新幹線で東京へ戻る。
瀬戸内ならば備讃瀬戸の魚と讃岐うどん、東京湾の堤防ならば大森・羽田あたりの食堂と銀座の寿司。別の本案も書こうと思えば書けるが、それは別の年に紀州以外でチヌを釣ったとき、改めて起こすことにする。一年に一土地、それで充分である。



