雪湖日記 公魚

記録

雪湖日記 公魚

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掲載 2026.08.18 更新 2026.08.18

釣暦

一月は氷の上に座る。信州の湖にワカサギ釣りの小屋が立つ。三十センチの手バネ竿、鯨のひげの穂先、黒く染めた道糸。将軍が賞味して公の魚と書かれた、指より細い魚の来歴を書いた。

 一月の声を聞くと、信州や上州の湖から「氷結しました、早くおいでください」という便りが届く。届くのは私のところではなく、釣り宿の常連のところだが、その報せが人づてに回ってくるのを聞きつけると、もう駄目である。仕事の段取りがどうであれ、行かなければ気が済まなくなる。なぜそうなるのか自分でも分からない。

北斎「冨嶽三十六景 信州諏訪湖」。凍る前の湖と、その向こうの富士。
北斎「冨嶽三十六景 信州諏訪湖」。凍る前の湖と、その向こうの富士。
葛飾北斎/メトロポリタン美術館(CC0)

 ワカサギを釣る。氷の下から、指より細い、白く透き通った魚を一尾ずつ引きあげる。それだけのことである。

 徳川時代の将軍家が霞ヶ浦のワカサギを賞味し、毎年の献上品としたことから、この魚は「公魚」の字をあてられたという。公(おおやけ)の魚という、ずいぶんものものしい字である。ものものしい字を背負わせるほどの魚かと言われると、これがそうなのである。釣ってすぐに氷の上に放っておくと、たちまち冷凍になる。家に持ち帰って串に刺し、天ぷらかフライにし、レモンを絞って熱いうちに塩で食う。指より細い魚が、口の中で雪解け水のように崩れる。これを公魚と呼んだ将軍は、案外まともな舌を持っていたのだろうと思う。

 信州山中湖、上州榛名湖、信濃諏訪湖。氷上のワカサギ釣りで知られる湖はいずれも標高が高く、寒の入りから節分過ぎまで一面に氷が張る。氷の厚さが十センチを超えると、その上に小屋が立つ。風よけのバラックのような箱で、中に米俵を敷き、銅壺を半分に切って針金の取っ手をつけた炭火入れを置く。戸を閉めて中に座っていると、外が吹雪いていても暖かい。「氷がしまる」と土地の人が言う、ビリビリという氷の鳴る音が、足の下から聞こえてくる。初めての人は氷が割れたかと思って驚くが、土地の人は笑う。富士を目の前に、四方は銀世界、清浄な空気が辺りを払っている。

 道具立てのことを書く。竿は三十センチほどの短い手バネ竿で、穂先は鯨のひげ(鯨穂)でつくる。一尺五寸あった長竿が氷上では邪魔になるので、明治頃までは長いまま売られていたものを、釣り師が自分で短く詰めて使った。鯨穂は弾力があってワカサギの繊細なアタリをよく拾う。今でも竿師の手による鯨穂の手バネ竿が残っている。私は釣具屋の店先に放り出されているグラスの安物を使っているが、いつかは鯨穂のものを誂えてみたい。誂えてみたいと言いながら、毎年同じ安竿を持って氷の上に座っている。

広重「諏訪湖」。湖を渡る道と、遠くの山。
広重「諏訪湖」。湖を渡る道と、遠くの山。
歌川広重/クリーブランド美術館(CC0)

 道糸は、和竿時代は本テングス(ハリス用の絹糸)をおはぐろ染めにした一厘半を使った。氷の上では白い糸が見えにくいので黒に染めたのである。今ならばナイロンの〇・五号で代用できるが、雪の白に対して黒糸がくっきり見える、その理屈は今もそのままに通用する。糸の長さは竿いっぱいから一メートルほど余らせて、より戻しの金具をつける。これは糸の縒れを戻すためというより、急いでたぐったときに金具が氷にカチンと当たって「あと一メートル」の合図になる、という工夫である。先糸はナイロンの一厘、針は袖型の二厘針を五、六本、枝のように出す。

 餌はサシ、関西ではサバ虫と呼ばれる蛆である。一度針につけると半日はそのままで使える。餌の付け替えの手間が少ないから、子供にも続けやすい。一尾掛かっても急にあげずに、十センチ二十センチとゆっくり上げてくると、次々と五本六本の針にワカサギが乗ってくる。これを丁寧にやれば、指先の敏感な子供の方が、釣り経験のある大人よりよく釣ることがある。子供は素直だから、教えた通りに動く。私のような半端な経験者は、自己流の小細工をして、かえって失敗する。

 雪を踏んで歩く時は、長グツにカンジキをつけるか、駒下駄の裏にビールの王冠を四つほど打ちつけて滑り止めにする。氷の上は小股で歩く。これは知らずに大股で歩いて派手に転んだ末に、土地の人に教わった。誰かが転ぶのを見て笑っていると、笑った当人が次に転ぶ。氷上のワカサギ釣りは、滑って転ぶことから始まる。

 穴に薄氷が張ってきたら、灰ふるいで氷を掬い取る。家から灰ふるいを持っていく釣り師は珍しいかもしれないが、これを忘れると、せっかく開けた穴が次第に塞がってくる。釣ったワカサギを灰ふるいに乗せ、手あぶりの上で焼くと、即席のヤキジューになる。氷の上で、釣りたての魚を焼いて食う。待合の二階で出てくる料理など、これに比べれば野趣のかけらもない。

 節分を過ぎ、湖の氷が緩み始めると、ワカサギは流れ込みの川を上って卵を産む。次に会えるのは秋で、その年に生まれた若い魚を浅場で釣ることになる。ワカサギは一年で親になる。一年は早く、また同じことを繰り返すのである。

ワカサギ。指より細い魚である。
ワカサギ。指より細い魚である。
H. L. Todd 画/米国海洋大気庁(パブリックドメイン)

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