二月は釣り場が少ない。海はまだ寒く、川は水が動かず、湖は凍ったままである。それでも何か釣るかと言われれば、関東の釣り師は迷わずタナゴを挙げる。寒のうちのタナゴ釣りは、江戸の昔から「粋」の代名詞になっていて、寒風に吹かれながら極小の竿を握り、極小の魚を釣るのを上等の趣味とした。

歌川広重/国立国会図書館(パブリックドメイン)
タナゴは、地方によっては釣り師の眼中にない魚である。「ニガブナ」「シビンタ」「猫マタギ」「センペラ」と、呼び名の悪さから察しがつくとおり、土地によっては相手にもされない。タナゴ釣りに血道をあげるのは江戸特有の文化で、関東の釣り師は、二月にタナゴを釣らないと釣り人としての体裁が悪い、というところまで思い込んでいた節がある。私も少しその節がある。
江戸の大名の釣り遊びは、これを極端まで突きつめた形をとっていた。深川木場の材木堀に金屏風を立てまわし、悠然と座布団に腰を下ろし、左に金蒔絵の手あぶりを置く。針素には腰元の処女の髪を使う。処女の髪は弾力があり、一度でも男を知った女の髪は伸縮がなくなる、という何とも検証しようのない理屈で、しかし大名の釣り師たちは真顔でそれを信じていた。竿の先に二、三センチの魚がかかると「これ、釣れたぞよ」と声を掛け、腰元が魚を外して餌を付けた。私はこの図を想像すると、釣りという行為が大名にとって何であったのか、よく分からなくなってくる。が、分からないからこそ面白いのだろうとも思う。
道具立てのことを書く。タナゴ竿は「サントリ竿」と呼ばれた。本所花町の海老屋、小笠原仙之助(通称「エビ仙」)という人が考案したものとされ、三本つぎで三尺ほど、三本の指で箸を持つように使う。継ぎが芋つぎ(折れた長芋を竹串で繋いで売った大昔の長芋売りの故事に由来する)で、抜くと三本に分かれる。手元に象牙の小さな糸巻きがつき、穂先には白鯨を使い、これが歳月を経て卵色に変わる。竿の素材の竹は「芝竹」と呼ばれる、出所を竿師仲間でも秘密にした特別な竹を使った。のれんのように店先に下げて枯らしてあったのを、名人の竿忠が見破ったという逸話が残っている。
現代の私はそんな大層な竿は持たない。延べ竿の二尺かそれ以下の小物用、ハリスは〇・三号、極小の袖一号針を結ぶ。シモリウキを五個ほど並べた小物仕掛けで、トンボのような目印をつけて、深さに合わせて糸を調整する。和竿時代の標準的な仕掛けは、本テングスの一厘を白髪染めにしてトンボを通し、ミコシ針・流線針・袖針・狐針・半月針と、針の形を細かく使い分けた。針一本にも流派があり、釣り師同士で「あの人はミコシ派だ」「半月党だ」と評していたらしい。私はどの派にも属していないが、属さないという立場があるのかどうかは、聞いたことがない。
餌は玉虫が現代の定餌である。江戸時代から明治にかけては、米虫(穀象虫の幼虫)を米蔵の前の玄米から拾ってきたり、卵の黄身をうどん粉に練ったり、干しうどんを口に含んで噛み切ってつけたり、飯粒を半分にして針先につけたりした。神田川の左衛門橋から和泉橋にかけて、米蔵が並んでいた佐久間町の往来で、釣り師が玄米の山をかき回して米虫を探している姿は、今では想像することもできない景色である。

喜多川歌麿(パブリックドメイン)
釣り場は、戦前までなら神田川や柳瀬川、千葉佐倉の鹿島川あたりで盛んに釣れた。今でもタナゴが残っている水は関東各地に点々とあるが、生息地保全の問題があるので、本紀行では具体名を挙げないでおく。ニッポンバラタナゴ・ミヤコタナゴなど絶滅危惧種に当たるものは、釣ること自体が法令で禁じられている県もある。土地のルールはその土地で確かめてから竿を出すのが、寒の釣り師の最低限の作法である。
釣り方は脈釣りが主で、外道としてダボハゼ、口細、小ブナ、ウナギなどがかかる。子供時分にこれらの外道がかかるのが楽しみだった、と昔の釣り師が書いている。子供にとっては、何が釣れるか分からない、というのが釣りの一番の楽しみなのだろう。大人になると外道に文句をつけるようになる。これは進歩なのか退歩なのか、いまだに判じかねている。
釣ってきたタナゴはヤキジューにする。小刀かハサミで腹に傷をつけ、黒いワタを押し出してよく洗い、細かい金網で焼く。皿に醤油を注いで化学調味料で少し薄めたところへ、焼きたての魚を入れると「ジュー」と音がする。これを釣り師は「ヤキジュー」と呼ぶ。粉山椒をかけて頭から骨ごと食べる。ほろにがいのが特徴で、戦前までは両国橋近くの「武蔵屋」という佃煮屋がこれを売り物にしていた。今ではこの店も無いし、自分の家で焼いて食う以外に、タナゴのヤキジューは口に入らない。



