雪湖日記 信州・上州の畔

記録

雪湖日記 信州・上州の畔

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掲載 2026.08.18 更新 2026.08.18

釣暦

寒の湖で半日座ったあとの体は、家へ帰るまでに一度どこかで温まらなければならない。諏訪の天ぷらと信州そば、山中湖のほうとう、榛名の食堂。一月の食の段取りを書いた。

 一月のワカサギの食を書く。寒の湖に出かけるとなると、食のことは普段の二倍は気になる。寒さの中で釣ったあとの体は、家へ帰るまでに必ず一度どこかで温まらなければならない。冷えた腹のまま電車に乗ると、家に着くころにはすっかり風邪を引いている。これは何度か風邪を引いて覚えた。実訪問の記録はこの稿の末尾に追記する。

広重「富士三十六景 信州諏訪之湖」。湖の向こうに富士が立つ。
広重「富士三十六景 信州諏訪之湖」。湖の向こうに富士が立つ。
歌川広重(パブリックドメイン)

 行く先によって食の素地が違う。諏訪なら諏訪の食、山中湖なら甲州の食、榛名湖なら上州の食。同じワカサギ釣りでも、釣ったあとに何を食って帰るかで、その日の景色が変わる。

 諏訪湖は釣り場としても、食う土地としても、いちばん厚みがある。釣りの当日に湖畔の店に上がって、釣ったワカサギをその場で天ぷらにしてもらえる店もある。釣ったものでなくても、湖の網漁で揚がったワカサギが店の生簀に泳いでいる。諏訪湖周辺のワカサギ料理は、天ぷら、フライ、唐揚げ、佃煮、甘露煮、味噌天丼と、思いつく限りのこしらえで出てくる。湖の畔の諏訪湖苑のような宿の料理にもワカサギが並ぶ。そばを忘れてはいけない。諏訪は信州そばの土地で、ワカサギ天ぷらの蕎麦屋というのが理想形である。湖岸通りの八洲本店は創業百年を越える手打ちそばの店で、品書きにわかさぎの天ぷらが載る。蕎麦を手繰って、揚がったばかりのわかさぎを一つまみ。諏訪でそばを食うなら、これが一番素直な並べ方になる。諏訪は御柱の年に振る舞われる馬刺し、諏訪の五蔵の地酒、味噌天丼と、一日では到底回りきれない土地である。釣りに行ったついでに食う、というには欲が深すぎる土地である。

凍らせたワカサギ。釣った先から氷の上で冷凍になる。
凍らせたワカサギ。釣った先から氷の上で冷凍になる。
Fumikas Sagisavas(CC0)

 山中湖は富士山を真正面に見ながら釣る湖で、食の系譜は甲州(山梨)のものになる。湖畔の食事処に座れば、ワカサギ料理に加えて、ほうとう・馬刺し・鳥もつ煮といった甲州の郷土料理が当たり前のように並ぶ。湖畔の食事処の品書きに「ほうとう・ワカサギ・馬刺し」が三点セットになっている店が多い。海馬(シーホース)では「甲斐路御膳」として、馬刺し・ワカサギフライ・ほうとうを一皿で出している。釣り上がりの体には、甲州ほうとうほど合うものはない。汁の熱さで内側から温まる、というのが正しい言い方で、温めるのではなく内側に火を入れる感覚に近い。郷土料理和十郎、庄ヤといった、甲州の食の縦糸を引く店が湖畔に並ぶ。

 榛名湖は釣り場として古く、食堂は派手ではないが地に足がついている。湖畔のあさひ亭・白樺亭といった小ぶりな食事処が、ワカサギフライ・きのこうどん・舞茸天ぷらを並べる。山中湖の甲州料理ほど華やかではないが、上州の山の食、という落ち着きがある。榛名湖は温泉地としても古く、釣りの帰りに一風呂浴びてから食事に下りる、という流れが組める。釣り→風呂→飯→帰宅、この四点セットが寒の釣りの一日の正しい締めくくりだろうと思う。

 信州・上州・甲州、どこに行ってもワカサギ料理は揃うが、湖ごとに加わる脇の品が違う。釣りたての魚を揚げてくれる店が湖畔にある、というのがいちばんの理想。釣れなくても、店の生簀から揚げてくれる。指より細い魚が口の中で雪解け水のように崩れる、あの感じは家の七輪では再現できない。土産物として買って帰るのは甘露煮や佃煮で、湖畔の物産館には必ず並んでいる。家で温い飯にのせて、あるいは寒の夜に酒の肴に。諏訪の味噌天丼は、ワカサギと川エビの天ぷらを甘辛の味噌だれで丼にする諏訪独自の食べ方で、これは諏訪に行ったときしか食えない。信州そばは、蕎麦屋でワカサギ天ぷらを出してもらえる店があれば理想で、もり蕎麦と一緒に取る。山中湖ならほうとうと馬刺しと鳥もつ煮が脇に並び、榛名湖なら舞茸天ぷらやきのこうどんが冷えた体を温めてくれる。

 寒の湖の一日は、時計の針より、寒さと体温の上下で測るほうが正しい気がする。出かける前に湯気の立つ蕎麦を一杯食って体を温めておく。これが朝飯を食ったうちに入るのか、釣りの装備のうちに入るのか、どちらでもよい。氷の上に出てしまえば、しばらくは何も口に入らない。寒いと腹は減らないというのは、初めて寒の湖に出た人が一様に驚く事実である。体が冷え切る前の何時間かが、一日のいちばん集中して釣れる時間で、これを取り逃がすと、後がいくら粘ってもだいたい埋め合わせにならない。湖畔の蕎麦屋に上がってワカサギ天ぷらをもり蕎麦と一緒に取る、というのは、釣れていれば祝いの一杯になり、釣れていなければ慰めの一杯になる。どちらにしても、温かい汁が体に入った後の数時間がもう一度釣りの時間で、暗くなるまで小屋に座っている。暗くなって竿を仕舞ってからが本番、というのが寒の湖の妙なところで、ここに温泉の一風呂が挟まる。これを入れないと、家に着くまで体に芯の冷えが残る。風呂上がりに諏訪の地酒を一合、味噌天丼か甘露煮で締める、というところで一日が終わる。釣ったワカサギは凍ったまま家まで持ち帰り、翌日に揚げる。翌日の天ぷらは、当日の湖畔の天ぷらとは別の食物で、これはこれで楽しみがある。山中湖を選ぶならほうとうが入り、榛名湖を選ぶならきのこうどんが入る。湖が違っても、寒の釣りは食と湯で挟まなければ、一日が締まらないというところは変わらない。

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