三月も半ばを過ぎると、水辺の空気がはっきり変わる。光の角度が変わり、川面が白く光るようになる。そうなると、そろそろだと思う。

歌川広重/国立国会図書館(パブリックドメイン)
暦の上では啓蟄を過ぎ、土中の虫たちが這い出してくる頃だというが、私の場合は虫より先に、水底の魚のことが気になって仕方がなくなるのである。なぜそうなるのか自分でも不思議に思うが、毎年のことなので、もう諦めている。
真鮒が浅場に上がってくる。これを「乗っ込み」と呼んでいる。深みで冬を越していた魚が、産卵のために葦際や水草のあたりへ移動してくるのだ。この時期のマブナは「乗っ込み鮒」と呼ばれ、春の季語にもなっている。腹に卵を抱えた雌は丸々と太り、同じ魚とは思えないほどに重い。

歌川国芳(パブリックドメイン)
江戸の釣り師にとって、鮒は一年の幕を開ける魚であった。春に鮒を釣り、夏に青ギスとアユ、秋にハゼとボラ、冬の締めにタナゴ。そういう釣り暦が江戸の釣り師の一年で、その最初の頁が春の乗っ込み鮒であった。鮒を釣らずに一年を始めるのは、なんとなく気持ちが悪い。私もそういう気持ちになることがある。
その釣り師たちが手にしていた竿について、少し書いておく必要がある。享保八年(一七二三年)には、ある旗本の手になる釣りの専門書が編まれている。日本に現存する最古の釣り書とされ、上巻に釣り場、中巻に釣り具と餌、下巻に釣期と天候を扱い、すでに継ぎ竿の選び方が書かれている。竹を継ぎ合わせる細工が、その頃には武士の趣味として体系化されていた、ということである。継ぎ竿そのものはもっと古く、江戸時代初期の延宝のころの俳書には、京の方で「いれこ竿」の名がすでに登場する。竿の細工は京から始まり、江戸に渡って花開いた、というのが大枠の流れであるらしい。
江戸での発展は、十八世紀末の天明八年(一七八八年)、上野広徳寺前に竿屋を構えた泰地屋東作から始まる。今日に続く江戸和竿の系譜の初代である。東作はもともと紀州徳川家の江戸詰め武士であった。武士が竿を作り始めて店を構える、というのは相当に思い切った転身であるが、釣りが好きであれば仕方がないとも思う。
東作の系譜から竿忠、竿冶、竿辰と続く竿師たちが、鮒竿、タナゴ竿、ハゼ竿、キス竿と魚種ごとに専用の竿を作り分けた。釣る魚によって竿を替えるのが江戸の釣り師の流儀で、それが粋というものだとされていた。フナ竿は布袋竹や矢竹を継ぎ合わせて作られる。乗っ込みの鮒を相手にするには腰の強さが必要で、しかし穂先は繊細でなければならない。そういう矛盾した要求に応えるのが竿師の仕事であった。
昭和十一年、ロシア生まれのオペラ歌手シャリアピンが来日した折、銀座の東作を訪ねて四代目店主を「竿師のストラディバリ」と呼び、「日本では魚釣りそのものが一つの芸術であるのかもしれない」と言ったという。ロシア人のオペラ歌手にそこまで言わせる竿で、春の霞ヶ浦に竿を出す。それだけで十分ではないかと私は思っている。釣れるかどうかは、また別の話である。
清明は四月五日頃、万物が清らかに明るく見える頃とされる。この時期になると、霞ヶ浦や利根川水系のホソでは、枯れた水生植物、ヤッカラがざわざわと揺れ始める。魚がそこで動いているのだ。
霞ヶ浦の乗っ込みは、西浦の北岸エリアから幕を開け、気温の上昇とともに釣れる場所がじわじわと北へ移っていく。穀雨は四月十九日頃で、このあたりが終盤になる。桜が散る前に行かないと間に合わない、と毎年思うのに、気づけば葉桜になっていることがある。
道具はノベ竿一本でよい。道糸はナイロンの一号を基準にするが、水が澄んでいるときは少し細くする。仕掛けはシモリウキを五個ほど通した「探り仕掛け」で、テンポよく振りこめるようにする。
昔の釣り師の道具立ても、それほど大層なものではなかったらしい。二間半の継ぎ竿に、道糸を六尺ばかりにつめ、白の三分玉ウキを三つ通し、貝がらしもりを打つ。これが乗っ込み鮒の標準的な仕掛けで、葦の芽がかわいらしく出ている根もとを、ヘチに沿って探っていく。型物が出そうな水ならば、道糸を一厘の絹糸にして、絹の吸い込みを使う。今のナイロンと違って絹は水を吸って沈み込むから、水なじみがよく、流れに自然に乗る。私は絹糸の仕掛けをまだ自分で組んだことがない。組まずに何年も来てしまった。
エサはミミズが良い。乗っ込みの真鮒は動物食性が強く、ミミズ独特の動きと匂いには抗えないらしい。練り餌でも釣れないことはないが、この季節は虫に限る。昔の釣り師はミミズの種類にもうるさく、定餌はキジミミズと決まっていた。寒の戻る早春には赤虫、赤坊、ボッタといった水生の虫を使い、土地によっては、ボッタより細い小さなキジを二、三匹まとめてチョン掛けにすると食いがよい、というような細かな流儀があった。釣り師というのはどこの土地でも、餌のことについては妙にうるさいものである。
真鮒の活性に大きく影響するのが「通水」である。水が動いて水位が上がると、魚は盛んにエサを食べ、浅場を目指して動き出す。温かい春雨の翌日、適度な濁りが入った時などは最高と言っていい。昔の釣り師はこういう水の状態を「笹にごりのドロ流れ」と呼んだそうである。笹の葉がうっすら透けるくらいの濁り、という意味であろう。晴れて気温の上がった昼過ぎ、水が動いているとき。これは毎年変わらず、鮒と同じで私もそんな陽気に誘われて釣り場に立つのである。
釣り方は、一か所で粘らずに探り歩くのが基本である。「鮒は足で釣れ」と昔から言う。一日に五万分の一の地図で十里も歩いていた、という昔の釣り師の述懐があるが、足の弱い私には到底真似のできない芸当である。それでも歩く。ヤッカラの周りや、田畑へ通じる排水口の近くなど、周囲より少し深くなっているところを狙うのがキモだ。仕掛けをそっと落とし込み、アタリがなければ次へ移る。落とし込んだ直後の、あの瞬間に意識が向いていないと、気づけばエサだけなくなっている。意識が向いていない時間が、釣り場に出るとずいぶん多いことに気づく。これは家にいるときも同じかもしれない。
アタリは、シモリウキがすっと水中に引き込まれる形で出る。これが現代の探り仕掛けでの典型的なアタリ方である。昔の玉ウキ仕掛けでは、いったん沈んだ玉ウキがふわふわと浮きあがってくる、というアタリの出方をするらしい。竿先を静かに聞いてやると、モクモクとした重みが伝わってくるという。これも一度味わってみたい出方である。どちらにしても、軽く抜き合わせると手応えは確かで、乗っ込みの雌は腹が重い分だけよく走る。油断すると葦の根に潜られる。何度か葦に巻かれた末に、油断するなと自分に言い聞かせるようになった。言い聞かせたところで毎回うまくいくわけではない、ということもまた覚えた。
昔の釣り師というのは、釣り日誌をつける人が多かったようである。普段の日記はつけないが、釣り日誌だけは丁寧につける、というのが釣り師の流儀だったらしい。同行した者にまで天気・潮どき・時間・船頭・案内人・賃金・釣果を書かせた、という話を読んだことがある。私もこの紀行を書きながら、それがいわば現代の釣り日誌のつもりでいる。何年か経って読み返したとき、あのときこうすればよかった、と思うのもまた釣り師の楽しみのうちだという。私はまだそういう年季には達していないが、いずれそうなるのだろうと思う。
穀雨を過ぎると、日差しが夏の気配を帯びてくる。水辺のツクシが伸び切り、代わりにノビルやヨモギが土手を覆い始める。魚の気配も少しずつ薄くなり、真鮒はまた深みへと戻っていく。
次に会えるのは秋で、そのときは手のひらに乗るような、ごく小さいものばかりになる。釣り人はそれを「柿の種」と呼んで、飽きもせずまた竿を出す。そうこうしているうちに、いつの間にか一年が過ぎてしまうのである。



