五月の京都は、新緑が眩しい。鴨川の水は雪解けの澄みを残しながら、底の石が日に焼けて緑色に染まり始める。貴船川は山の影に入って薄暗く、苔の匂いがする。この時期に京を訪れる釣り師は、まず鴨川か貴船川にハスとヤマベを狙いに行く。江戸の釣り師にとっての二月のタナゴが、京の釣り師にとっての五月のヤマベに当たる。土地が違えば季節も魚も変わる、というのが面白い。

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ハスはコイ科の魚で、琵琶湖と淀川水系を本来の生息域とする。雄は産卵期になると体が婚姻色をまとい、口先が上に反り返る独特の顔になる。日本の在来コイ科で唯一の魚食性が強い種で、瀬で他の小魚を追って捕食する。釣りの対象としては、五月後半から六月にかけて瀬に集まる時期が最盛で、サクラと菖蒲の合間に釣りものが切り替わる。
ヤマベは関東でいうオイカワ、関西でいうハイ、九州でいうハエの呼び名で同じ魚である。全国の川に広く棲み、雄は婚姻色の華やかな縦縞を纏う。流れの緩い瀬で蚊針を打ち、表層を泳ぐ魚を釣り上げる、軽妙な釣りである。
継ぎ竿の細工は、もとは京から始まったとされる。江戸時代初期、延宝のころの俳書には、京の方で「いれこ竿」が引き合いに出されている。これが今のところ、文字で確かめられる最も古い継ぎ竿の言及で、それより遡る平安末期に京で継ぎ竿が生まれた、という口伝もあるが、こちらは裏が取れない。江戸の継ぎ竿が天明八年の泰地屋東作に始まる、その六十年も前から、京の町には「いれこ竿」を作る竿屋がいたわけである。江戸和竿のような派手な系譜の整理が京の竿屋には残されておらず、町の竿屋として静かに代を継いだ家が多いのだろうと想像する。私はその名残りを一度この目で見たいと思って京を訪れるが、訪れるたびに、京は何かを見せてくれそうで、結局は何も見せずに帰してくる。それで毎年また行く。
道具立てのことを書く。現代の私が貴船川に持って行くのは、五メートル前後の渓流竿、道糸はナイロンの〇・八号、ハリスは〇・四号、毛バリは市販の蚊針セットからその日の水色に合うものを数本。これに替え穂先と玉ウキを少々。市販品で十分組める仕掛けである。
和竿時代の仕掛けはこうである。京の竿屋のものなら四間半の継ぎ竿、本テングスの一厘の道糸、絹糸の枝バリス、毛バリは自家製の鯛巻きや黒巻き、ラッキョウウキか五分の玉ウキ。蚊針には「お染め」「八ツ橋」「ヤミガラス」など、土地土地で異なる名が付いていて、この名前を聞いただけで蚊針の色や巻き方が思い浮かぶ釣り師もいた。今ならば写真付きの蚊針カタログが釣具屋にあるが、昔は名前が文化を保存した。名前というものはそれ自体が道具なのだなと、こういう時に思う。

歌川国貞・歌川国輝(パブリックドメイン)
餌(というよりは毛バリの色合わせ)が大事である。水色に対して、その日の蚊針が「合う」か「合わない」かで、釣果は天と地ほど変わる。合わない時は何をしても食わず、合った時は替え時もないほど食う。これを「針合わせ」と呼ぶ。蚊針釣りの妙味は、この合わせの一点にかかる。釣り師は何十本もの蚊針を持ち歩いて、当日の水と空に合わせて取り替える。
ラッキョウウキは、なぜラッキョウの形をしているか。蚊針を踊らせるためである。表層に小さなさざ波を立てて、蚊針を「ほんとうの虫」に見せる。これが釣果を生む。五分の玉ウキでも代用できるが、ラッキョウのほうが踊りがよい、という釣り師がいる。私は両方使ったことがあるが、その日の風と水の機嫌で違うので、どちらが本当に良いかはまだ決められないでいる。
川床(鴨川納涼床、貴船床)の文化は、釣りそのものとは離れるが、五月の京を語るときに外せない。釣りの帰りに川床に上がって、川の音を聞きながら何かを食う。これが五月の京の作法である。釣ったヤマベを店に持ち込んで焼いてもらえる店もあるし、ヤマベなど何もなしに京都の山の食を出す店もある。どちらも京の春である。
六月に入ると鮎の解禁があり、京の釣り師は鴨川や桂川でいっせいに鮎竿を出す。ヤマベの蚊針釣りは、その合間にも続けられるが、季節の主役は鮎に譲る。私もそろそろ次の月(長良川か那珂川か)を考え始めることになる。京を発つ朝、貴船の朝霧の中を歩いて、もう一度蚊針を打ってから帰る。それで五月は閉じる。



