九月 秋海日記 北へ発つ夜(別立て紀行)

記録

九月 秋海日記 北へ発つ夜(別立て紀行)

mkg

掲載 2026.09.19

釣暦

九月の夜、大宮で竹の継ぎ竿と毛鉤を積んで北海道へ向かう。日本一長いという氷川の参道の脇で荷を作り、日本でいちばん長い高速道路に乗った。行き先の川の名を、私はまだ聞いていない。釣暦・九月の別立て紀行の一日目。

 毎年どこかへ出かける連中というのがあって、今年は北へ行くことになった。北海道である。なぜ北海道なのかは、例によって誰も説明しない。去年の話をしているうちに、では今度はもっと遠くだろうという声が出て、遠いというだけの理由で決まる。理由としては薄い。薄いまま私は荷を作った。

 集まったのは九月十八日の夜で、大宮の住宅地の隅であった。黒いピックアップの荷台に幌代わりの硬い蓋が被せてあって、その上に二人が肘を突き、それぞれ手元の明かりを覗き込んでいる。道を調べているのか、遅れて来る誰かに何か言っているのか、私の位置からは分からない。分からないまま私も同じ蓋の端に凭れて、荷が減っていくのを眺めていた。出発の前というのは、たいてい誰も喋らない。

 屋根の上へ竿が載る。黒い長い袋が二つで、口を開けると飴色の竹が覗いた。継ぎ竿である。節と節のあいだに黒い糸が巻いてあって、街灯の下で見ると糸の艶だけが先に目に入る。竹の肌のほうは光を吸うので、暗がりでは糸が浮いて見え、竿そのものは輪郭がぼやけている。口栓は乳白色で、緑の細い紐が結んである。紐の先は袋の外へ出したままで、締めるでもなく垂れている。

夜、暗い車体に飴色の竹の継ぎ竿が立てかけてある。継ぎ目に黒い糸が巻いてある。荷台の蓋の上に透明のフライボックスとコルクグリップの握りが置いてある。
車体に立てかけた竹の継ぎ竿。荷台の蓋にフライの箱とコルクの握り。
アスファルトの上に黒い竿袋が開いてあり、口から飴色の竹が三本ほど覗いている。口栓は乳白色で緑の細い紐が結んである。肩紐に古い手荷物の札が残っている。
竿袋の口から覗く飴色の竹。乳白色の口栓に緑の紐。

 袋の持ち手のところに、いつのものとも知れない空港の手荷物の札が残っていた。剥がすほどでもないので、そのままにしてあるのだろう。私にも一枚か二枚、そういう札の付いたままの道具がある。札は持ち主の記録ではなく、道具がどこへ連れて行かれたかの記録である。この竿がどこへ行ったのかを、私はまだ知らない。

 毛鉤の箱も出てきた。透明の蓋の下に、赤と飴色と緑が一本ずつ並んでいる。箱の縁に黄色い帯が貼ってあって、そこに毛鉤、とだけ書いてある。竹の竿に毛鉤を結んで北の川へ行く、という筋書きらしいことは、この二つの箱が並んだところで察しがついた。察しはついたが、私はまだ何も聞いていない。聞けば教えてくれるのだろうが、荷造りの最中に行き先の川の名を尋ねるのは、どうも野暮な気がして黙っていた。旅の中身を先に知らないほうが、道中が長く感じられなくて済む、ということもある。

暗がりに透明の小さなケースが開いている。黄色い帯の台紙に、赤・飴色・緑の毛鉤が一本ずつ並んでいる。奥に糸巻きが置いてある。
透明の箱に赤と飴色と緑の毛鉤が一本ずつ。黄色い帯に「毛鉤」の字。

 荷造りの続きは、少し北へ移った場所でやった。宮町の二丁目で、氷川の参道の脇である。あの参道は一の鳥居から社まで二キロほどあって、日本で一番長いといわれている。もとはこれが中山道であった。寛永五年に関東郡代の伊那忠治が道を今の位置へ移し、参道の両側に住んでいた者をそちらへ移して宿場に整えたので、道の役目が抜けて参道だけが残った。二の鳥居は木で、これは明治神宮から譲られて移したものだという。つまり私たちは、旅の道ではなくなった道の脇で、旅の荷を作っていたことになる。そういう符合は、後から気づくと少しおかしい。

 この町は、そのあともう一度、道に外されている。明治十六年に日本で最初の私鉄が上野から熊谷まで通ったとき、線路はこのあたりを抜けていったのに、大宮に駅は置かれなかった。浦和の次が上尾である。駅が出来たのは二年後で、さらに十年ほど経ってから鉄道の工場が置かれ、そこでようやく鉄道の町になった。中山道に外され、鉄道にも一度外されて、それでも道で戻ってきた町の隅で、私たちは北へ行く荷を積んでいる。大宮という名は、氷川の社を大いなる宮居と呼んだところから来ているそうで、はじめは門前町だったらしい。社が先にあって、道はあとから何度も引き直された。

 最後に出てきたのはカセットコンロで、黒い匣の蓋を開くと五徳が畳まれたまま入っていた。ガスの箱も積む。向こうで湯を沸かすつもりなのは分かるが、何を煮るつもりかは分からない。荷台の隅には和竿の店の小さなシールが貼ってあって、それだけが道具らしい主張をしていた。積み終えた頃には一人が荷の脇に横になり、白い布を肩まで掛けている。まだ走ってもいないのに、もう寝る態勢である。長い道のりを行く連中は、寝られるときに寝る。私はそれが下手で、いつも着いてから困る。

テールゲートの上で黒いケースを開いたカセットコンロ。その脇にオレンジ色のカセットガスの箱を手が置こうとしている。
テールゲートの上のカセットコンロと、カセットガスの箱。

 東北自動車道に乗った。川口から青森まで六百八十キロ近くあって、日本でいちばん長い高速道路だという。長いというのは走ってみるとよく分かる話で、いくら走っても標識の地名が減らない。宇都宮のあたりを過ぎたのが夜の十一時半で、前にも後ろにも灯が少なく、対向の車線は土手の向こうで見えない。運転を替わる替わらないの話を一度したが、結局そのまま走った。私は助手席で、窓の外のほとんど何も映らない黒を、それでも眺めていた。

フロントガラス越しの夜の高速道路。二車線の白線が暗がりへ伸び、その上に緑色の標識が小さく光っている。
宇都宮のあたり。二車線の先に緑の標識。

 零時を回って那須高原の休憩所に入った。建物の白い字が遠くからでも読める。この時刻に開いているのは麺の二軒だけで、片方は蕎麦と饂飩、もう片方は福島の白河の名を持つラーメン屋である。白河は県境の向こうで、これから通る町なのだが、その町の名の付いた丼を手前の県で先に食うことになる。名前のほうが先に着いている、という言い方もできる。

夜の休憩所の建物に NASU KOGEN の白い文字が光っている。街灯の下の芝生の脇を、数人が階段の方へ歩いていく。
深夜の那須高原。白い字が遠くからでも読める。

 青い花柄の丼に醤油の澄んだ汁が張ってあって、巻いた叉焼が一枚、白髪に切った葱と黒胡椒が載っている。向かいの卓では天麩羅の乗った蕎麦を啜っている。深夜の休憩所で麺を食う人間は、たいてい黙って食う。急いでいるからではなく、話す相手がいても、この時刻には話すことがないからである。ここでも誰も喋らなかった。

青い花柄の丼に醤油色の澄んだ汁のラーメン。巻いた叉焼が一枚、白髪に切った葱、メンマ、海苔、黒胡椒。
青い花柄の丼。巻いた叉焼と白髪葱と黒胡椒。
フードコートの木の卓。手前の盆にラーメンの丼、向かいでは二人が黒い丼から麺を取っている。卓の中ほどに紙コップと小さな薬味の瓶。
深夜の卓。向かいは天麩羅の乗った蕎麦。

 外へ出ると空気が冷えていた。この休憩所のあたりは標高が七百五十ばかりあって、夕方に荷を積んでいた大宮とは七度ほど気温が違う。雨は降っていない。夕方から雲は多かったが、日照が二時間ばかりあった日で、乾いたまま夜になった。上着を出すほどではないが、腕をさすった。北へ行くというのは、地図の上の話ではなくて、こういうふうに一段ずつ涼しくなることなのだと、毎度この段になって思い出す。

 一時半を過ぎて郡山の南を走っていた。まだ福島の途中である。ここから先、仙台も盛岡も青森もあって、その先に海があり、海の向こうにようやく目指す土地がある。竹の竿と毛鉤の箱は屋根と荷台で揺れている。着いてどの川へ立つのかを、私はまだ聞いていない。聞いていないまま夜が明けるだろうし、それで困ったことは一度もない。

夜の高速道路をボンネット越しに見る。白線と道路照明が暗がりへ続いている。
郡山の南。ボンネットの先に白線と照明。

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