貴船の祭が近づく頃になると、川の上の空気がどこか張ってくる。床の下を抜けていく水の冷たさと、山の方から降りてくる祭支度の気配とが、ひとつに溶け合って肌にまとわりつく。聞けば貴船は、古くから水を司る神を祀る土地であるという。竿の即売の席に一本が招かれたというので、私も傍らに付いて京の山あいまで足を運んだ。床几を並べ、客が竿を手に取りたいといえば渡す。それだけの席で、私はその端に腰を下ろしていた。

即売とはいっても、声を張って勧めるわけではない。竿は床几の端に幾本か立てかけてあり、手に取った客が、自分の手の延びる先を確かめるように軽く振る。それを作り手は、少し離れたところから黙って見ている。一本ごとに継ぎの調子も、漆の乗り具合も違うから、合う合わぬは握ってみなければ分からない。買うか買わぬかより先に、まず手に馴染ませてみる。その間合いの長さが、この席のいちばんの値打ちのように思われた。
客の途切れた合間に、私は手すさびのつもりで糸を垂れてみた。床のすぐ下を、水は見た目よりずっと速く流れている。仕掛けは細く、餌も持ち合わせの粉を練ったほどのものである。何の心づもりもないところへ、ふっと小さな当たりが来た。ハヤである。引き上げると、暮れかかった山の光を受けて、魚体がひと跳ねした。手のひらに乗せると、流れの冷たさが、そのまま掌に移ってくるようであった。
ハヤは雑魚と言われ、釣り人の自慢話にのぼることはまずない。けれども、これほど澄んだ流れから見出した魚は、やはりきれいなものだと私は思う。大きいものになると、鱗の縁が淡く紫がかって光る。岸寄りの泥に潜むものと違い、清い水に育ったハヤには、あの独特の青臭さもほとんど立たない。雑魚と侮っている人の心の方が、いつのまにか少し濁っているのかもしれない。
糸を垂れていると、小さな子供が一人そばに寄ってきて、釣らせてほしいという。竿を渡してやると、これは魚を取る棒だね、と真顔で言う。棒には棒の道理があってね、と私は穂先の撓りや、糸を流す長さのことを、できるだけやさしい言葉で伝えてやった。教えているうちに、自分が初めて竿を握った頃の、川の匂いや手のなかの重さが、遠くから戻ってくるように立ちのぼってきた。

手ほどきをしているうちに、子供の親までが竿を欲しがり、宿の女将までが前掛けのまま糸を垂れはじめた。釣りには、老いも若きも、客も主も、もとから境というものがない。良い竿を持っているか否かでもない。同じ水を相手にしている間だけは、誰もがただの一人の釣り手に戻る。教えること、それを受け取った者が育つこと、さらにその先へ手渡されていくことを、私は床の隅でぼんやりと思っていた。
釣れたハヤは、本来なら炭を熾して焼き、塩を振って腹に収めたいところであった。ところが、その炭を任されているはずの板長までが竿を手放さず、火を熾す時分をとうに過ぎてしまっている。今日のところは焼くのを諦めるほかないと、誰もが笑って竿に戻った。手前勝手な言い分だが、魚を逃した惜しさよりも、皆が一様に竿へ夢中でいる景色の方が、私には得難く映った。
不思議なもので、欲が出て身を乗り出すと、当たりはふっと遠のいてしまう。この日いちばん釣ったのは、声も立てず、ただ水面を見つめていた子供であった。逆に、親が手取り足取り、そこだここだと手を出してやる子供ほど、じきに飽きて竿を放り出してしまう。自分の手の内で起こることだからこそ、人は飽きずにいられる。横合いから差し出される正解には、どうやら面白さの居場所がないらしい。

釣れたか釣れなかったかは、突き詰めればどうでもよい話なのだろうと思う。釣れなくともよいというのは、しくじってもよいということで、しくじってよいというのは、それだけ懐の自由が広いということでもある。そもそも、この席での仕損じとは、何を指すのであろうか。一匹も上げられぬまま、ただ膝を抱えて川面を見ていたとして、それを取り逃しと呼ぶのは違う気がする。貴船のこの澄みきった流れを、暮れの光が刻々と変えていくのを、飽かず眺めていた時間を、無駄であったと呼ぶ気には、私はどうしてもなれずにいる。



