島へ遊びに行く連中というのが昔からあって、毎年どこかの島へ出かける。今年は三宅ということになった。なぜ三宅なのかは、誰も言わない。去年行った島の話をしているうちに、では次はあそこかという声が出て、それで決まる。理由としては薄い。薄いまま私は切符を取った。

今年はそこに若い者が一人加わった。何かの拍子にこちらの物好きに興味を持ったらしく、では一緒に行くかという話になった。竿を持っていくと聞いて、私は少し驚いた。訊けば釣りは一度もしたことがないという。一度もしたことのない者が、初めての一日を伊豆諸島の堤防で使うというのである。私は止めなかった。止める理由が思いつかなかったし、酔狂であれば仕方がない。
竹芝を夜の十時半に出る船に乗った。船室で寝たのか寝なかったのか判然としないうちに揺れが変わって、夜が明けきらないうちに桟橋へ吐き出される。私たちは寝ぼけた顔のまま島の上に立っていた。宿の部屋は昼まで使えないというので、荷だけ置いて外へ出た。

この島で何を見るかは、行く前からおおよそ決まっている。噴火の跡である。三宅島は近いうちに四度噴いていて、その跡が隠されていない。埋められもせず、囲われもせず、道の脇にそのまま置いてある。平成十二年の噴火では山頂が落ちて、直径一キロ半、深さ四百五十メートルの穴が開いた。九月からは一日に数万トンという火山ガスが出続けて、四千人が島を離れた。戻れたのは四年半あとである。
その四年半のあいだに、島の森の六割が枯れた。ガスと、ガスの溶けた雨と霧にやられて、二千五百ヘクタールが立ち枯れた。数字で言われても実感の湧かない広さだが、車で回ればいやでも分かる。斜面のところどころに、灰色の幹だけが櫛の歯のように立っている場所がある。
まずは山の中腹の展望台へ上がった。七島展望台という。晴れれば北の大島から南の八丈まで見渡せるからその名だというが、この日はよく晴れていたのに、私の目に映ったのは海の向こうにただ一つ、平たい頭に雲を載せた島影だけであった。名を尋ねる相手もいないので黙って眺めた。七つ見えるという触れ込みの場所で一つしか見えないのは、看板が嘘をついているのではなく、私の目が足りないのだろうと思う。

足の下は一面の黒であった。スコリアという、噴き上げられて空中で固まった軽い石が、砂利のように積もっている。赤茶けた粒がところどころ混じる。踏むと乾いた音がして、少し沈む。その黒の上に連れの三人が並んで海を見ていた。私は少し離れたところから、三人と、三人が乗っている黒とを一緒に眺めていた。

ひょうたん山という丘へも行った。昭和十五年の噴火でできたスコリアの丘で、名のとおりの形をしている。海に面した側が波に削られて、断面が剥き出しになっている。赤いものと黒いものが交互に層をなしていて、赤いほうは鉄が焼けた色である。焼けた鉄の色が、崖の高さのぶんだけ縞になって積んである。ここでずいぶん長く粘った。竿を担いで島まで来ておいて、いちばん長く足を止めたのが釣り場ではない。


椎取神社にも寄った。平成十二年の泥流が社殿も鳥居も呑んだ場所である。社殿と鳥居は新しく建て直されているが、その脇に、笠木だけを地面の上に残した古い鳥居が埋まったまま置いてある。頭の一本だけが草から出ている。周りの森は例のガスで大半が立ち枯れて、灰色の幹が林立している。そしてその幹のあいだから、若い緑が伸びてきていた。上を向いている枯れ木と、下から出てきた葉とが、同じ一枚の景色に収まっている。私は笠木の前で、写真も撮らずにしばらく突っ立っていた。


二日目は暗いうちに起きて、大路池へ行った。噴火口の跡に水の溜まった池で、案内板に「日本一のさえずり小径」と書いてある。聞こえるさえずりの量が日本一といわれるほど鳥の密度が高いのだという。行ってみて、誇張ではないと思った。まだ日の出前で、林の中がひとつながりの音になっている。どこで鳴いているのか見当がつかない。一羽ずつ聞き分けようとするのを途中でやめて、ただ立っていた。


この島にはアカコッコという鳥がいる。伊豆諸島とトカラ列島と男女群島にしかいない鳥で、天然記念物に指定されている。森の六割が枯れたのだから、当然この鳥も減った。それが、平成二十八年の調査では島に七千八百羽ほどいると見積もられている。七年前の調査の一・八倍である。案内板には、鳥を見るなら子育ての四月から六月がいちばんだと書いてあった。私たちが行ったのは八月で、季節としては外れている。外れていてなお、あの音であった。
釣りの話に入る。竿を出したのは午後、島の西側の伊ヶ谷という小さな港である。背後にすぐ山が立ち上がっていて、堤の上から覗き込むと、底の石が見えるところと見えないところがある。

仕掛けは、朝のうちに島の釣具屋で買ったものである。壁一面に吊るしてあるサビキの中から、当人が名前で選んだ。「ボウズのがれ 好き嫌いなし」という。全長一メートル六十に鈎が六本、金色の小アジ鈎に夜光の玉がついていて、袋には「どれかに喰ってくる」と刷ってある。名前で仕掛けを選ぶ客に、私は初めて会った。もっとも、初めて竿を持つ人間にとって、名前以外に選びようがあるとも思えない。

その日は妙な潮であった。ふつう海は一日に二度満ちて二度引くものだが、その日は満潮も干潮も一度ずつしかない。明け方に引いたきり、夜まで十六時間かけてゆっくり一度だけ満ちていく。差は七十センチしかないから、堤の上から見ているぶんには、動いているとは分からない。分からないだけで、水は一日じゅう上がり続けている。
年長のほうが先端まで行って沖へ投げている。潮の動かない日に遠くを狙うのは筋の通った選択である。私はそれを横目に、赤い糸で巻いた継ぎ目の竿を堤の縁から立てた。穂先の下の水は澄んでいて、底の石まで見える。見えるところに魚はいない。若い者は少し離れた付け根のあたりで、買ったばかりの仕掛けを海へ落としている。振りかぶりはするのだが、糸の出方から見て、投げているというよりただ沈めているに近い。



その、ただ沈めているほうに、来た。
上がってきたのは、銀白の地に黒い横縞を引いて、背の上あたりが黄色く染まった魚であった。手のひらより少し大きい。当人は掛かった瞬間に声を上げ、それから抜き上げるまで一言も喋らなかった。堤の先の竿は、この間ずっと沖を向いたまま何も起こらない。私は笑うのをこらえるのに苦労した。長くやっている者の脇で、その日が生まれて初めての者が先に釣る。釣りというのはそういうふうにできている。知っているつもりでいたが、目の前でやられるとやはり可笑しい。

オヤビッチャである。南の魚だ。夏のあいだ、黒潮が三宅島のあたりを流れる。南の海で生まれた稚魚がその流れに乗って北へ運ばれ、ひと夏だけ島の周りで暮らす。当人は掌の上のそれを裏返したり透かしたりしていた。名を訊かれたので教えたが、聞いたそばから忘れたと思う。初めて釣った魚の名を覚えている者を、私はあまり知らない。
名を教わるとすぐに仕掛けを海へ戻した。そこからが長かった。日が傾いても竿を置かない。年長のほうが引き上げようと声をかけても、あと一投、あと一投と言って動かない。振り方は最後まで直らず、竿がしなるところまで持っていけない。それでも掛かる。掛かるから置かない。私はこの手の熱の出方を知っている。出るときは一日目に出て、出ない人間には一生出ない。
この魚たちは冬を越せない。水が冷えれば死ぬ。かつては死滅回遊魚という、身も蓋もない呼び方をした。近ごろは季節来遊魚と言い換えることが多いようで、言い換えたい気持ちは私にもよく分かる。流れに運ばれてきて、ひと夏そこにいて、それきりになる。そういうものを、生まれて初めて竿を持った者があと一投あと一投と釣り続けている。その先のことは言わずにおいた。訊かれもしなかったし、言ってどうなるものでもない。
翌朝も同じ港へ寄って、二尾。片方はまた昨日と同じオヤビッチャで、もう一方は、緑の地に、目のあたりから桃色と橙の線を何本も流した細長い魚であった。ヤマブキベラである。胸鰭の前の半分が黄で、後ろの半分が青い。港のコンクリートの上に二尾を並べて置くと、片方は縞、片方は線で、同じ海から同じ午前に上がってきたものとは思えない。当人はしゃがみ込んで長いこと見ていた。
二尾とも、水から上げて少し経つと色が沈みはじめる。縞のほうは全身が濃紺に寄っていき、緑のほうは緑のまま少しずつ暗くなる。魚は死ぬと名札から先に消えていくようなところがあって、見分けの印を持っている場所ほど早く色を失う。生きているうちなら遠目にも分かることが、十分もすると分からなくなる。私はこれをいつも少し惜しいと思う。

夜、もう一度だけ堤へ出た。朝に降り立ったのと同じ港である。この港のすぐ上まで、昭和五十八年の溶岩が来て止まっている。四百軒を焼いて、海岸の手前で止まった。その溶岩の裾の、街灯の届かないところへ仕掛けを落として一時間ほど、三尾。三尾とも当人が上げたものである。
一尾は銀色で、目が大きく、二叉の尾に黒い帯が並んでいる。ギンユゴイで、夜に動く魚である。残る二尾は赤かった。片方は赤橙の地に白い斑を不規則に散らし、もう片方は逆に、白味の勝った地へ赤い斑を置いている。並べるとまるで違う魚に見えるが、二尾ともアカハタである。この魚は場所によって白くなる。同じ魚が、同じ夜の同じ一時間のうちに、白と赤を裏返して上がってきたわけで、当人には二種釣ったように見えたらしい。違うと言うと、少しがっかりしていた。


ギンユゴイもアカハタも、根に着く魚である。根というのは海の底の岩の起伏で、この島の場合、その岩は溶岩が海へ落ちて固まったものである。焼けて流れて冷えたものの隙間に、いま魚が入って棲んでいる。堤の上からは何も見えないのだが、糸の先で何かが引くたびに、そこに岩があって魚がいることだけは分かる。
もっとも、海の戻りは陸ほど早くない。噴火のあと、火山灰や泥流が磯へ流れ込んで、磯根の漁は落ちた。避難の前の年に五百トンあった水揚げが、その後しばらく二百トンに届かない年が続いている。森が枯れてから鳥が一・八倍になるまでに七年かかったが、海のほうはもっと長くかかっているらしい。焼けた岩に魚が入るには、岩が冷えるだけでは足りないということだろうと思う。
宿へ帰って、部屋に車座になった。コニャックの角瓶が畳の上に一本と、氷を入れたグラスが並び、その隣にカップの麺が積んである。取り合わせとしてはひどいものだが、島の夜の部屋というのはたいていこうなる。前の晩もそうであった。当人は釣った魚の話を一度もしなかった。名を知らないのだから話しようがない、というだけのことかもしれない。

二日で六尾、五種である。数を書くのは本意ではないのだが、全部を一人が釣ったことと、その一人がその日まで竿を握ったことがなかったことは、書いておかないと話が通らない。年長のほうも私も、二日のあいだ一尾も上げていない。「どれかに喰ってくる」と刷ってある袋を選んだ者だけが、そのとおりの目に遭った。
私たちが島を出た一週間ばかりあとに、あの海へ冷たい潮が入ったそうである。二十七度あった水が、三度も四度も落ちた。つまりあの二日は、暖かい水の最後の数日にあたっていた。堤の上で掌に乗せた魚たちの、海に残ったほうの仲間がそのあとどうなったかは知らない。
思い返すと、あの二日で見たものは、焼けた跡と、そこへ戻ってきたものと、その二つきりであった。笠木だけを出した鳥居の周りに若い葉が出ていて、枯れた森の跡地で日本一といわれる量の鳥が鳴いていて、冷えた溶岩の隙間に魚が入っている。どれも、放っておいたらそうなったというだけの話で、誰かが仕組んだものではない。私たちはその上を歩いていた。

当人はまた行きたいと言っている。魚の名は、たぶん一つも覚えていない。覚えていないほうがよく釣れるのかもしれない、と書きかけて、やめた。書いてしまうと、こちらの立つ瀬がない。



